前田 朗(まえだ・あきら)
1955年札幌生まれ。中央大学法学部、同大学院法学研究科を経て、1990年、東京造形大学専任講師となり、現在、東京造形大学教授(専攻:刑事人権論、戦争犯罪論)。日本民主法律家協会理事、在日朝鮮人・人権セミナー事務局長、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷共同代表、イラク国際戦犯民衆法廷共同代表、イラク世界民衆法廷国際コーディネータ、無防備地域宣言運動全国ネットワーク呼びかけ人、RAWAと連帯する会呼びかけ人。
明治初期に札幌周辺地域にはいった屯田兵の子孫として札幌に生まれた。北海道に居住していたアイヌ民族との関係では、残念ながら「侵略者」の位置にある。第2次大戦後の農地改革で土地を失ったので、生まれたときは普通の貧しい家庭であった。 幼稚園から小学校にかけて、遊び友達の多くは、サハリン(樺太)からの引揚者住宅の子どもたちであった。もちろん当時は、彼らの家族がなぜサハリンなる土地に行っていたのか、なぜ「引揚者」という存在になったのかを知らなかった。サハリンには日本人として連行されたのに、戦争終結後は現地に放置されて帰国できないままの朝鮮人が多数いたことも、ずっと後になるまで知らなかった。 小学校高学年から中学時代、教室には多数の転校生がやってきた。それは北海道空知地方に多い炭鉱町からの転校生だった。石炭から石油への産業政策の変更によって、多くの炭鉱が次々と閉鎖され、多数の人々が職を失い、札幌に出ざるを得なかったことも、漠然としか知らなかった。 中学・高校時代は、太宰、安吾、織田作、中也、道造、ボードレール、ランボー、ラディゲに明け暮れた。クイーン、ヴァン・ダイン、クロフツ、クリスティ、バローズ、バラード、アシモフ、ハインライン、クラーク、ブラッドベリにもはまっていた。 高校時代、友人に教えられて長沼自衛隊ミサイル基地違憲訴訟を知った。長沼の田んぼで草取りをしているときに進路が変わったことは、『平和のための裁判』のあとがきに書いた。おかげで大学は法学部になってしまった。良かったのか、悪かったのか。たぶん良かったのだろう。 もっとも、大学時代は、五木、野坂、生島、藤本、半村や、清岡、三木、庄司、古山、森等々が颯爽と活躍していたため、小説を読みふけっていた。当時は<ノンセクト・アンチラディカル温泉派>と称して、伊豆の温泉で遊んでいた。そうした中、李恢成がたまたま高校の先輩ということもあって、『砧をうつ女』『見果てぬ夢』など、よく読んだ。金大中事件の衝撃とともに、「朝鮮問題」と呼ばれる「日本問題」に徐々に目覚めていった。もっとも、日比谷公園で開かれた集会にほんの数回顔を出しただけで、運動には加わっていない。 大学4年の秋に読んだ論文に衝撃を受けて大学院を目指した。「比較法雑誌」に掲載されていた桜木澄人「マグナ・カルタの古き良き基本法への展開と法理の構造」である。大学院刑事法研究室にはいり、桜木教授のもと、治安法研究・近代刑法史研究を専門とした。大学院時代の研究仲間たちとの相互触発が後の研究者としてのあり方に影響したことはいうまでもない。東京刑事法研究会では風早八十二先生、吉川経夫先生に直接ご教示いただいた。刑法読書会、民主主義科学者協会法律部会、刑法理論研究会、刑事立法研究会にも育てられた。 法律家運動では、日本民主法律家協会、青年法律家協会に所属し今日に至っている。1988年の世界人権宣言40周年集会をきっかけに集まった仲間と、1989年に在日朝鮮人・人権セミナー(呼びかけ人・鈴木二郎ほか、実行委員長・床井茂・弁護士)を立ち上げ、事務局長となった。 在日朝鮮人・人権セミナーが取り組んだテーマのひとつに「JR定期券問題」があった。JRが、朝鮮学校生徒に学割定期券の発売を認めなかったので、これを認めるようにとの要請活動である。衆参両議院で「かつて強制連行しながら、その子孫に学割定期券も買わせないのか。従軍慰安婦や南方方面派遣団の歴史をどうするのか」という質問が出された。これに対して、労働省職業安定局長が「軍の慰安婦への関与」を否定した。この答弁を聞いた金学順ハルモニが「私は日本軍の慰安婦だった」と名乗り出たことから、日本軍性奴隷制をめぐる調査・研究・議論が本格化した。朝鮮人強制連行真相調査団が再結成され、問題解決を目指して内外で活動を続けている。 1990年代、朝鮮人に対する差別と犯罪(チマ・チョゴリ事件、朝鮮学校卒業生大学受験資格問題など)を国連人権機関に訴える活動に加わった。日本軍性奴隷制問題も同じ場所で議論されていた。ラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力」特別報告書(国連人権委員会、1996年)、ゲイ・マクドゥーガル「戦時性暴力」特別報告書(人権小委員会、1998年および2000年)に出会い、戦争犯罪・人道に対する罪・ジェノサイドの研究を始めた。 2001年のアフガニスタン戦争、2003年のイラク戦争に関連して、多くの仲間とともに民衆法廷運動を展開した。湾岸戦争当時のラムゼイ・クラーク提唱による民衆法廷・東京公聴会、日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷にも加わったが、イラク戦争後は世界的な民衆法廷(イラク世界民衆法廷)に発展した。民衆運動の視点から国際法を見直す場としても勉強になった。