非国民がやってきた!(1)
なぜいま非国民か(1)
夏堀正元という小樽出身の小説家が、1994年に『非国民の思想』(話の特集)を出しています。夏堀正元は1925年に小樽で生まれて1999年に亡くなりました。代表作は下山事件を素材にした『罠』、新島基地反対運動を取材した『豚とミサイル』、民衆の戦争責任にも関連して『渦の真空』があります。『渦の真空』は非常にスケールの大きい全体小説です。
長く日本ペンクラブの理事を務め、各種の反戦運動の署名に多く参加しました。また、小樽運河を愛する会会長として保存運動にも力を注ぎました。小樽は小さな町ですが、かつては北海道の文化や経済の中心でした。夏堀正元も小樽出身ですが、石川啄木、小林多喜二、伊藤整も小樽に縁があります。小樽の文学や絵画は日本のスケールでもかなり知られていました。
夏堀は『非国民の思想』の中で、かつての非国民について様々なことを述べています。冒頭に「40年前の非国民二等兵――8・15の不安と怖れ」という文章があります。かつて兵隊にとられた時、夏堀は日本軍の兵隊だけれども、こんな戦争をやっても負けるぞと軍隊の中で喋っていました。そのために非国民として糾弾されたのです。その体験をもとに、日本の近代史と非国民について述べています。特に非国民を生み出したのは治安維持法という法律ですが、1925年に普通選挙法と治安維持法が施行されました。
夏堀は「最高刑を死刑とする治安維持法の脅威は、その後の日本人から言論表現の自由、結社の自由、基本的人権というもっとも大切なものをすべて奪い取ってしまった。このときから日本人は“お上”に逆らうことのできない、ものいわぬ“家畜人間”になりさがって、自由と平等と連帯を原則とする近代市民社会をもつことを許されなくなったのである」と言います。
1925年から20年の間、日本人は基本的な自由や人権がなくなって特高警察や軍部がやりたい放題をしていたわけです。その時に軍部だけが悪いわけではなくて民衆も物を言わなかったと夏堀は強調します。
「民衆は軍部の危険きわまりない動きにたいして、ひたすら沈黙を守った。もともと“お上意識”の強いタテ割社会に長いこと馴染んできた民衆は、ものいわぬ民となることで、軍部に協力した。昭和史の日本の民衆は、軍部にたいする屈従のみをみずから生き方にしはじめたのである」。
「わたしが満州事変をあえて取りあげたのは、日本の現代史の方向が民衆の生活や意識をふくめて、それによって決定づけられたからである。諸外国から“侵略国家”としてのレッテルを貼られ、ついに国際連盟から脱退して世界の孤児になったのも、満州事変のせいであった。その後、国際的話し合いの場もないままに、日本は軍国主義の道をひた走り、上海事変、日中戦争、太平洋戦争をひき起して、みずから侵略国家としての正体を曝していくのである。その間、民衆はなにをしたか。ありていにいうと、事実上軍部が牛耳る天皇制国家への隷属を強いられて、ひたすら戦争協力者として仕立てあげられたにすぎなかった。 民権運動、護憲運動、普選運動、労働争議などにあらわれた民衆の権力への抵抗史はあとかたもなく消え、国家権力に盲従することで生活の糧を得る貧しくも弱い姿がクローズアップされてくるのである」。
民衆が民主主義を求めて闘った歴史があるのに、それがあっという間に消えてなくなって、民衆はひたすら戦争協力をした。その無惨な歴史を夏堀は問い直しているのです。
なぜいま非国民か(2)
夏堀正元は、国家が戦争にのめりこんでいき、戦争協力態勢をつくるために臣民に天皇制教育を押し付けるとともに、はみ出た人々を非国民として排除していくメカニズムを指弾しています。国家が上から一方的に非国民を名指しして排除していくとは見ていません。むしろ迎合し協力していく臣民自身が隣人の中に非国民を嗅ぎだしていく。抵抗するのではなく協力することによって、自分だけは排除されない地位を得ようとする。皇国臣民の安全な立場に身を置こうとする。
「権力に抵抗することをやめた民衆――それは民衆の非人間化を意味する。満州事変に始まった15年戦争の中で、民衆は単なる家畜のような従順なマスとして国家への素朴な忠誠心競争をさせられる無意志な生きものと化してしまったのである。/私は権力側の民衆にたいするとりこみ方がとくにうまかったとか、巧緻であったとは考えない。昭和初年のエロ・グロ・ナンセンス時代に象徴的にみられたように、<近代>というものを気分として通過しても、思想としてついに確立できなかった日本では、民衆は市民社会の自由と平等から遠くにある存在であった」。
悲劇の一例として、夏堀は、教育のあり方を取り上げています。沖縄の学校の校長が天皇の写真である「御真影」を守る。必死に取り組んだ八重山の話が紹介されています。戦争協力し御真影を必死で守った校長が、日本軍に殺された事例です。沖縄人は米軍のスパイである。日本軍はそう考えた。日本軍がどこで何をしているかを米軍に通報した、スパイだという疑いをかけて、日本軍に協力していた校長先生を殺してしまう。
「校長は、一枚の御真影のために、味方と信じていた日本軍に殺され、その死体を谷底に蹴落とされたのであった。この事件は、たえず沖縄を差別しつづけてきた日本政府の皇国民教育の残忍な典型として私には生涯忘れがたい」。
非国民には明確な定義がありません。状況に応じて自在に変化します。非国民がいるのではなく、誰もが「国民度/非国民度」によって測られるのです。つねに忠誠を問われ国民度競走が始まります。少しでも誰よりも早く一歩でも二歩でも非国民から遠ざかるために。他人が狩り出されている間は自分は安全だという倒錯。助かるために他の非国民を名指ししていきます。
夏堀正元の『非国民の思想』は敗戦後約半世紀を経た1994年に出版されています。
憲法9条の平和主義、戦争放棄のもとでは「非国民」はいません。戦争をしないので敵がいない。日本は敵を想定しない国家です。じゃあ本当に戦争をしないのか。戦力を保持しないのかというと現実はそうではなかったわけです。第1に日米安保条約による在日米軍。第2に自衛隊。2つの軍隊が活動してきました。
在日米軍は建前上はフィリピン以北の極東で活動するといわれました。自衛隊は海外派兵禁止国会決議がありました。そうした限定が露骨に破られ始めたのがポスト冷戦の時期です。社会主義圏崩壊後、アメリカは世界支配に向けた資本や軍事の再編成を始めました。日本もポスト冷戦の国家構造を作り出す必要に迫られます。新世界秩序を支えるための対米協力。「ソ連の脅威」を口実に軍拡した自衛隊が、今度はアメリカの世界戦略に即応して再編成されます。日本企業の権益保護も課題となります。「法人」救出です。海外派兵が動き始め、湾岸戦争掃海艇派遣、カンボジアPKO派遣を手始めに、世界に出かけていくようになりました。
夏堀正元は、自衛隊海外派兵を支える国内体制づくり、イデオロギー操作や強制に伴う非国民づくりの恐怖を指摘したのです。1945年の非国民経験をもとに1994年の非国民状況にアンチテーゼを提示しようとしたのです。
なぜいま非国民か(3)
夏堀正元の『非国民の思想』からちょうど10年後、2004年に、斉藤貴男『「非国民」のすすめ』(筑摩書房)が出版されました。斉藤貴男は『カルト資本主義』『プライバシー・クライシス』『機会不平等』『人間選別工場』などで知られるジャーナリストです。
『「非国民」のすすめ』は目次を見ただけでもどういう本なのかよくわかると思います。「なぜこんな国になってしまったのか」「あなたは国家に監視されている」「あなたも参加している戦時国家ニッポン」「あなたも差別されている」「権力のプロパガンダに堕したマスメディア」「ジャーナリストとして譲れぬこと」。
斉藤貴男は、日本の国民が今、自分も差別され、いじめられているのに、でも何とかして差別する側にまわりたい。自分より弱い者を探して懸命に差別する。なんとか「多数派」になりたがる。そういう風になっている状況を批判しています。生活保守主義という言葉を使っていますが、自分たちの生活を守るために治安主義になる人々です。
「強いリーダーを求める風潮が高まってきた。拝外主義を隠そうともしない。マッチョを気取りたがる政治家に人気が集まる。ともすれば日本人の政治意識の未熟さに原因が求められやすい傾向は、しかし現代の“先進国”に共通する現象ではないか」。
もはや戦場であるイラクに自衛隊を派兵する事を不思議に思わない。戦場で自衛隊が人を殺すかもしれない。そのことを不思議に思わない国民が増えている。
「わかりきって平然としていられる、いや、それこそが“国益”だとして反対運動を小馬鹿にできる神経の持ち主たちが、現代この国の多数派になってしまっているのだろうか。投票行動などを通して、日本国民の総意が戦争を否定しない政権を選んだのは、まぎれもない事実なのだ。私たちは私たちの税金で同胞に人を殺させ、挙句の果てに殺される運命を甘受させようとしている」。
さらに「支配する者と支配される者」という言い方もしています。
「多くの人々が、見事なまでに勘違いしている。支配層に属さない一般の人間が他者を見下して、何事も招かずに済むほど渡る世間は甘くない。差別し排除する者は必ず、自らも差別され排除される。相手からの反撃ばかりでない。癒してちょうだいと積極的に縋りついてきた、他ならぬ“国家”にである」。
斉藤貴男が強調しているのは<監視社会>に協力する国民です。この数年の間に日本は監視社会と呼ばれる社会をつくり上げてきています。例えば「住民基本台帳法」という法律ができて、全国民に背番号がつけられています。居住している場所、人間関係あるいは納税者としての番号など全てが、番号で管理されている。個人の名前とか趣味とか生き方、関心、そういうことが問題なのではなくて納税者として番号がついている。この番号で人々を管理するという制度です。
監視カメラの時代になっています。銀行にもコンビニにも監視カメラがすえつけられる新宿歌舞伎町のような繁華街にたくさんのカメラが設置されて路上を撮しています。いつどこで撮されているかわからない状態になっています。道路交通法による規制のために都心の主要幹線道路に多数のカメラが設置されて自動車を見張っています。運転手も同乗者も顔が見えます。
子どもたちの安全を守れといって学校にもテレビカメラが設置されるところが増えている。団地でもテレビカメラを設置している。お互いにテレビカメラを向け合って監視しあっている。そういう状況になっている。まさに<相互監視社会>です。
なぜいま非国民か(4)
斉藤貴男『「非国民」のすすめ』は<監視社会>の諸現象をていねいに追跡して報告しています。
地域にも団地にも学校にもコンビニにも配備された監視カメラはその典型です。犯罪予防のための手段として理解されるかもしれませんが、いつでもどこでも監視できるシステムということは、人々が互いに他者を犯罪予備軍と見ていることです。自分だけ免れることはできません。自分たちを犯罪予備軍にするシステムをわざわざ採用して、相互不信、疑いの文化を蔓延させています。不信や疑いには限界がありません。監視カメラは次のカメラを招き寄せます。カメラで足りないとなれば警備員常駐にするしかありません。
地域では路上にゴミを捨ててはいけないと「ポイ捨て条例」が作られます。ポイ捨てすると犯罪でつかまる。東京都千代田区では「禁煙条例」が作られていて、路上でタバコを吸うと罰金です。そういう厳しい取り締まりをする。あるいは各地で「生活安全条例」が作られて、人々の生活を警察や行政が管理する。
今やビラ配りをすると逮捕される。そういう状況になっています。立川で自衛隊イラク派兵反対ビラを郵便受けに入れただけで住居侵入罪の容疑で逮捕されています。東京地裁では無罪になりましたが、東京高裁では逆転有罪です。葛飾区でも戦争反対のビラを郵便受けに入れただけで逮捕されています。公務員が休日に戦争反対のビラを配ったという理由の逮捕もあります。他にも同様の事件で逮捕が続いています。戦争推進のビラはつかまりません。逮捕されるのは戦争反対のビラだけです。
思想信条の自由とか表現というのが厳しく規制されて日本国民たる者、戦争反対のビラなんか配ったら犯罪ですよ。こういう風にすでになっているわけです。
外国人管理も厳しくなって、入国管理法が改正されて、入国する外国人から指紋をとっています。外国人はテロの予備軍だと決めたわけです。法律でそう決めたという事です。
「共謀罪」法案が国会に何度も上程されています。人々が集まって犯罪の相談をしたら、もうその段階で犯罪である。まだ何もしてなくても相談しただけで犯罪というのが共謀罪です。
人々がお互いに監視し合う社会が作られている。これを斉藤貴男は<相互監視社会>と特徴付けています。行き過ぎた監視社会になっていて、人々が敵対しあう。相手をスパイと疑う。相手を非国民と疑う。 それが当たり前になってきてしまった。これが現在の日本ではないか。こういうぎすぎすした社会ではむしろみんな非国民になるしかない、ということで『「非国民」のすすめ』を出しているわけです。
「他者を支配することのエクスタシーに酔い痴れた連中に手前勝手な“愛国心”とやらを強要されて怒りもせず、沈黙を続ける私たちもまた、いつしか狂い始めていることを自覚しなければならない。せめて一人ひとりが彼らの望む理想の国民像とは最も遠い『非国民』となって立ち止まり、じっくりと考え、行動して、一日も早く、今度こそ本当に、平和と平等を追求する社会を目指そうではないか」。
次の文章は、本当の「非国民」が支配者となっている倒錯を端的に指摘しています。
「重労働の後のモツ煮込み定食の味もわからない手合いが、他人を見下して偉そうに指図する場面が、現代のこの国には多すぎる。終戦の前年に生まれた旧内務官僚の御曹司が“奉仕活動の義務化”を叫び、『昔は軍隊という通過儀礼があった』と胸を張る世の中になってしまった。・・・大切なのは汗と泥にまみれて働く人間の尊厳であって、世襲大臣の支配欲などではない。封建時代への逆回転だけは避けようではないか」。
なぜいま非国民か(5)
それでは非国民とは何でしょうか。「非国民」と「国民」はどのような関係になるのでしょうか。
憲法1条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれています。日本国民に主権があると書いてあります。では日本国民とは誰か。憲法10条には「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」としか書いてありません。国籍法という法律に、日本人の子どもは日本人であるという趣旨のこと書かれています。もともと日本国民は誰かというのは明らかにはされていません。憲法前文も、いきなり「日本国民は、正当に選挙され国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために・・・」と始まっていますが、日本国民とは何であるのか示していません。日本国憲法は国家の領土さえ規定していません。ポツダム宣言がもとになっていると考えることもできますが、むしろそれはある意味明らかだからです。わかっているから書かれていないのです。
しかし、大日本帝国憲法でも大日本の領土がどこであるのか、その臣民とは何者であるのか何一つ書かれていません。憲法本体ではなく、その告文に「皇朕、皇祖、皇宗」が登場し「万世一系」とあるように、領土も臣民も定義する必要はなく、天皇が支配しているところが領土であり、天皇に帰属・服属しているのが臣民だからです。どんどん侵略したいのですから、領土を限定して明記できません。日本国憲法にしても、前文よりもさらに前に「朕は、日本国民の総意に基いて・・・帝国憲法の改正を裁可し」とあるように、形式上は大日本帝国憲法の改正として制定されたために、天皇の憲法という側面を引きずっています。
お互い日本人だとわかっていることになっているからわざわざ書かれていないのと、天皇の「所有物」であるから書いていないのと両面があるのです。
近代の国民国家というのは国民イデオロギーを持っています。フランス国民、ドイツ国民、ここが典型ですね。それぞれ近代国家をつくって、国民というわけです。そのとたんに国民ではない人たちがつくられます。国民というイデオロギーの特殊な、現実的機能です。近代のイデオロギーとして国民と言ったとたんに、一つの世界観、一つの人間観を表しているわけです。
国民が主権を持っている。国民が基本的人権を持っている。国民は仲間である、と言ったとたんに、国民でなければ排除されるわけです。真っ先に排除されるのが外国人、あるいは先住民族――日本にはアイヌという先住民族がいますがアイヌの先住民族としての権利は認められていません。沖縄だって事実上の先住民族ですけれどもその権利はほとんど認められないで、むしろ米軍基地を押し付けられている。あるいは様々な少数者がいます。在日外国人も少数者ですが、それだけではありません。様々な形で少数者が選別され、排除されていきます。国民イデオロギーはしばしば「健全な国民」という表現形式をとります。日本でもナチス・ドイツの歴史を見ても、健全な国民イデオロギーというのは、実はもっとも排外的差別的抑圧的な考え方になります。理想的な国民イメージからの距離の隔たりが次々と区画されていきます。民族・人種はもとより、思想や行動、ジェンダーなどあらゆる傾向が選別の基準となります。レズビアンなどの性的な少数者、あるいはGIDという性的な同一性の障害がある人たち。あるいは障害者、心身の障害者がそうです。少数者がいつも排除されていくわけです。
加えて戦争体制となると非国民がどんどんつくられます。非国民とは文字通りには国民以外の者を指しますが、国民でありながら国民らしくない者、健全な国民にふさわしくない者――これが「非国民」なのです。