非国民がやってきた!(6)
長谷川テル(1)
長谷川テルの最も有名な文章から始めましょう。
「お望みならば、私を売国奴と呼んでくださってもけっこうです。決しておそれません。他国を侵略するばかりか、罪のない難民の上にこの世の地獄を平然と作り出している人たちと同じ国民に属していることのほうを、私はより大きい恥としています。ほんとうの愛国心とは人類の進歩と対立するものでは決してありません。そうでなければ排外主義です。そして、なんと多くの排外主義者がこの戦争によって日本に生まれたことでしょうか。かつて良心的、進歩的、あるいはマルクス主義者とさえ自称していた知識人までが、反動的な軍国主義者や政治家のシリ馬にのって、恥もなく『皇軍』の『正義』をはやしたてているのをみますと、私は怒りや吐き気をおさえきれないのです。」
実際、1938年11月1日の『都新聞』記事は、テルを「“嬌声売国奴”の正体はこれ/流暢・日本語を操り怪放送祖国へ毒づく/“赤”くづれ長谷川照子」と激しく非難しています。
「漢口陥落直前まで漢口放送局のマイクから流暢な日本語で激越な反日デマ放送をしてゐた日本女性の声が連日聞えて来たことは既報したが、この祖国日本に弓を引く覆面の売国奴女性の正体が武漢陥楽と共に判明、31日夕刻、出先当局からこの詳報が警視庁外事課にもたらされた。この女性は・・・元東京市役所土木課長、長谷川幸之助氏の次女、奈良女高師中退の長谷川照子で、かつて“赤の女闘士”として暗躍中に中国留学生と“赤い恋”に結ばれて渡支したものである。/本年2月上旬、突然香港放送局から女の声で反戦演説が行はれた。然も、それが歯切れのいい流暢な日本語である。この放送を耳にした誰もがマイクの前に起つ覆面の女性は何者だろうと深い疑問を抱き当局でもその正体を突きとめるため、躍起となったが皆目判らなかった。次いで広東に現れて何回となく放送は繰返されたのだ。/今夏わが無敵皇軍が漢口攻略の火蓋を一斉に切るや今度はこの怪放送が漢口を舞台として毎夕行はれ、日本軍部の誹謗、日本経済に関するデマが紅い唇に載せて毒づき始めた。かくて去る27日午後5時30分!神速皇軍の威力が完全に武漢を圧したその刹那から、この怪放送はハタと止まってしまったが間もなく覆面の女性長谷川照子の全貌が明るみに曝されるに至ったのだ」。
新聞に住所・写真つきで大々的に書かれたわけです。日本にいた家族は「売国奴の家族」ということで大変なことになります。外出もできません。中国にいたテルは「お望みならば、私を売国奴と呼んでくださってもけっこうです」と宣言して反戦の闘いを続けます。
「ああ、みなさん、良心というものは、その最後の一かけらまで、かくも簡単に投げ捨てられるものでしょうか。みなさん、けれども、みなさんを信じています。あなたたちが、一歩たりともこんな連中に近づかないでいることは、まちがいないと思っているのです。あなたたち、進歩的なエスペランチスト、ほんとうの国際主義者だけが、この戦争の意義と自分の行動の正しい方向とを、根本的に理解できるはずだからです。」
<文献>
宮本正男編『長谷川テル作品集』(亜紀書房、1979年)
非国民がやってきた!(7)
長谷川テル(2)
テルは日本に向けて呼びかけます。
「日中両国民のあいだには、いかなる基本的な敵対感情も存在していません。歴史をひもといてごらんなさい。反対に、あらゆる面での親密な関係が、見出されるではありませんか。1911年の辛亥革命のときには、たくさんの日本人が隣国人民の解放のために、すすんで血を流しました。プロレタリアートの解放のために、数年前、両国の労働者がどんなに固く手を握り合ったことでしょう。みなさん、私たちは東京でこの問題についてあんなに熱心によく語りあいましたね。そして、いつも、東洋の、ひいては世界のエスペラント運動を推し進める上での日中エスペランチストの協力について、真剣に論じあいましたね。」
日本側からは「売国奴」と非難されるわけですが、テルは、日中の友好、あるいは世界の人々の友好を念頭において語っています。こういう人物は当時、日本ではまさに「売国奴」にされるわけです。この時代、テル以外にはこういう女性の存在はほとんど知られていません。日本近代史の中でも稀有の存在と言ってよいでしょう。
テルはわずか35年の人生を流星のごとく駆け抜けました。テル(本名・長谷川照子)は1912(明治45)年3月7日、山梨県猿橋で生まれました。大月の近くです。父親が公務員の長谷川幸之助、母親が長谷川よねという普通の家庭です。1923(大正12)年、東京府立第三高女(現・駒場高校)、1929(昭和4)年、奈良女子高等師範(現・奈良女子大学)に進学しています。1929年というと、これから日本は戦争に突入しようという時期、他方で、文化的にはエロ・グロ、ナンセンスという言葉に代表される昭和初期のユニークな文化の時期です。同時に治安維持法による弾圧の時代で、4月に共産党員の全国的大検挙「4・16事件」が起きています。社会主義者の河上肇、向坂逸郎が大学から追放されています。こういう時代です。大正デモクラシーで自由と民主主義と言っていたのに、昭和に入って状況がガラリと変わります。そして日本は戦争に突入していきます。1931(昭和6)年に柳条湖事件で、日本が中国への侵略戦争を始めていきます。32年には「満州国」を建国します。国際法を無視して日本が中国の一部を略奪したわけです。その頃、テルは長戸恭とエスペラントを勉強しています。
エスペラントというのは国際語といわれ、世界共通語のエスペラント語を広げる運動があります。今でも運動している人たちがいます。世界共通語というのは、世界の人民がみんなコミュニケーションできるように、そして世界の平和のために、という目的でやっていたわけです。
そうすると当時の日本政府の方針とは合わないわけです。日本政府は「世界に冠たる日本がアジアを解放するのだ」と言っているのに、「エスペラント語で世界の人々が対等になって仲良くしましょう」というのは、政府見解と対立します。そのために思想弾圧の対象となることもあります。テルも1932年9月に思想弾圧で逮捕されます。数日間で釈放されますが、大学は退学処分、そして東京に戻ることになります。東京に戻って仕事を探しますが、逮捕歴があるので就職できません。そこで日本プロレタリア・エスペラント同盟に参加して、34年にNHKアナウンサー試験を受けて一次試験に合格しますが、逮捕歴があるのでやはり無理だということで、二次試験は受けていません。この時期、アナウンサー志望だったことが後の抗日放送につながります。
非国民がやってきた!(8)
長谷川テル(3)
1930年代、ヨーロッパではナチス・ドイツが政権を握って戦争を始めます。日本は国際連盟を脱退して孤立していきます。1934~36年、テルは、エスペラント語で論文を次々と発表しています。エスペラント学会で仕事をしながら、エスペラント語を学び、盛んに文章を発表しています。文化運動、労働運動、あるいは女性の権利といったテーマで次々と文章を発表していた時代です。
36(昭和11)年、中国からの留学生の劉仁と出会います。家族にも知らせずに劉仁と結婚します。日本が中国侵略戦争をしているその最中、そして多くの日本人が中国人を差別していた時代に、中国人留学生と結婚したわけです。37年、劉仁が抗日救国運動のため中国に帰国すると、テルは劉仁を追いかけて中国に渡ります。上海へ、さらに香港へ行き、劉仁と再会して活動していきますが、今度は逆に日本人だということで、38年、「日本のスパイじゃないか」と疑われ、香港に追放されたりします。しかし、劉仁のパートナーですから、劉仁や郭沫若らが「彼女はスパイではない。日中の架け橋になる人なのだ」ということで釈放されて、活動を再開します。
テルの主な活動は、38年9月からの国民党中央宣伝処対日科での日本語の反戦放送です。日本軍人や一般人に向かって「中国侵略戦争をやめなさい」「なぜ中国人を殺すのですか、こんな事やめて日本へ帰りなさい」という宣伝を盛んにやっています。それが元で『都新聞』から非難されたわけです。
エスペランチストとして成長し、中国人留学生と結婚して中国に渡り、反戦活動を行うようになりました。その思いを明確に表現した文章があります。
「私たちエスペランチストにとって民族は絶対的なものではない。それはただ、言語、習慣、文化、皮膚の色などの相違を意味するだけである。私たちはお互いを『人類』という一つの大家族の兄弟であると考えている。わたしたちにとってそれは理論でなく、実感なのだ。さらに私たちは外的には同一の言語で結ばれ、内的には同一の感情で結ばれている。私たちもまた、自分の祖国を熱愛している。しかし、その祖国愛は、他民族への愛と尊敬と両立しないような性質のものではない。」
当時の日本では「祖国愛」――日本人としての愛国心は、日本だけを大切にすることであって、中国に行って領土や財産をとってくることこそが「愛国心」です。台湾や朝鮮半島を手に入れる。「満州国」をつくる。日本軍が外国に攻めて行く。それを支持して「万歳」と叫ぶのが愛国心です。
ところが、テルはそうではないと断言していました。祖国愛というのは、他民族への愛と尊敬と両立する。自分の国を愛することは、他の民族や国を愛することと同じことなのだという普遍的な物の考え方をしていたのです。ここまで言い切っていた人というのは非常に珍しい存在です。今の日本でもここまで言い切る人はそういないというくらいのことを言っていた人です。そういう中でテルは劉仁と結婚したわけです。
<文献>
『日本平和論大系17』(日本図書センター、1994年)
非国民がやってきた!(9)
長谷川テル(4)
テルにも不安はありました。
「いままでに、おそらく数百の、あるいは数千の日本の婦人が、この溝を越えて中国人と結婚した。彼女たちの道が、花ひらく道であったか、いばらの道であったか、私は知らない。彼女たちの愛は国際的なものであったが、また同時に個人的なものでもあった。私もまた彼女たちのうちの一人である。ただちがっているのは、私たちの結びつきがエスペラントから切り離すことができないということである。したがって、私の未来が幸福であるか不幸であるかは、それらの日本婦人の幸不幸とはいささか変わったものである。上海には、ひと足さきに着いた彼が私を待っている。彼のほかには、誰一人私の知人はいない。遠い東北のある省からやってきた彼にとってもまた、上海はまったく見知らぬ都市である。でも、そのことで私はいささかのためらいも感じてはいない。私は彼のほかに一人も知人がいない、といった。いや、それは思いちがいだ。私は上海でみどりの友達、中国のエスペランチストたちを見い出すことだろう。いまはまだ、彼らの名前すら知らないけれど。
ひと月前は、私の25歳の誕生日であった。もしも人生が50年だとすれば、すでにその半ばを終わったのだ。過ぎ去った半生はきわめてありふれたものであったし、これからのきたるべき半生も目新しいものではあり得まい。私はありふれた女性なのだから。しかし、仮に日本にとどまった場合よりも、いくらかでもよけいに、より意義のある仕事をなにかやれるだろうと私は信じ、そして感じている。なぜなら私はエスペランチストなのだから。」
こういう言葉を書きながら、不安を抱きながら、しかし、決然として中国へ渡っていったわけです。その先で反戦活動を行うことになります。
1937年に南京、38年に武漢が占領されます。中国の共産党や国民党は重慶に逃れます。テルと劉仁も38年12月に重慶へ行き文化工作委員会で働きます。ところが39年に重慶爆撃が始まります。世界史上初の本格的な戦略爆撃です。日本軍機が武漢から飛び立って揚子江を遡り、重慶の上空から膨大な爆弾を落とします。中国軍を狙うのではなくて、重慶市街そのものに爆弾を落とします。国際法違反の無差別爆撃です。これを日本軍は大々的に行います。39年から44年にかけて、毎年毎年、猛烈な重慶爆撃を行ないます。最初は一回の爆撃で数百人が亡くなる。やがて千人単位で亡くなる。世界史上例のなかった大々的な都市爆撃です。それをテルは見ているわけです。日本軍の無差別爆撃により民間人が何千人と死んでいくのを見ながら、反戦運動を続けます。重慶爆撃以前の広州爆撃について日本軍を批判しています。
「去年の秋、私は人間も大地も空も、すべての人、すべてのものを3日3晩焼き続けたあの閘北の業火をみたのです。この春は、華中でもっとも人口の多い広州で、恐ろしい空襲を経験しました。数十機にのぼる日本軍の飛行機が毎日5、6回この町を狂ったように爆撃しました。傷ついた人々が崩れ落ちた家屋の下敷きになって窒息しているのです。人の手や足が、子どもや婦人が、そして爆撃によって母親のおなかから月たらずで引き裂かれたいたいけな赤ちゃんさえもが、ばらばらに散らばっているのです。美しい繁栄の町広州は瓦礫の山に変わりました。そしてその上には、生き残った人びとをおびやかすように月が輝いていました。よるべもないみなし子、夫をなくした婦人、身よりのない老人などの叫び、なき声、そして、ため息・・・。刻一刻、その数を増やす食物も衣類も家もない難民の群れ。日本軍国主義者の手による聖戦の、神聖な結末がこれなのです。」
非国民がやってきた!(10)
長谷川テル(5)
重慶爆撃は、最初の大規模なものが5月3日と4日に行なわれています。春になって揚子江の霧が晴れると、日本軍が空から攻めてくるわけです。花咲き誇る5月になると重慶には地獄の季節がやってくるのです。テルは「ベルダ・マーヨ(みどりの5月)」というペンネームを使うようになります。テルは重慶爆撃について「五月の首都で」という詩を書いています。
二つの河のあいだ・・・
空は高く晴れわたり、その深い青色の上に浮かぶちぎれ雲が白い。
平地からいちばん高い山の頂きにいたるまで、新緑が輝いており、そのあいだを、黒い、また灰色の城壁がうねっていて、大きな麦ワラ帽子が、せわしげに、また、ゆっくりと動いている。
――いとしい大陸の都、おまえ、重慶よ!
しかし私はおまえに5月の牧歌をささげない。たとえ緑によそおってはいても、壮大な坑戦の心臓であるおまえは、いま火のような戦意に燃えあがっているからだ。それに今月になってから、お前は赤い洗礼をすでに何回かうけたのだ。
3日、4日、12日、そして25日・・・
銀翼を浮かばせて悪魔どもが空に現れる。
ドカン!ドカン!ドカン!
私の足もとで大地が血をしたたらせ、おまえの上では空が燃える。
そして人びとが・・・
ああ、おまえはかぶりを振っている。この世界の、悲劇の中の悲劇について私が語ることを、どうやらおまえは好まぬようだ。
まったく、この悲劇にもっとも深くさいなまれているのは、私のような異国人ではなく、おまえ自身なのだ。
数千人のおまえの死者、そして、もっと多くのかわいそうな孤児や、やもめのため、おまえは泣いている。
おまえの折れた腕のため、やけどを負った足のため、おまえは苦しんでいる。
おまえはどこも血まみれだ――しかし、おまえは恐れていない。
血を恐れるおまえの寄生虫ども――汪精衛の一味は、おまえからとっくに逃げ出し、血にうえた日本のファシストの腕の中へ走った。
血の脅迫がおまえを決して屈服させえないばかりか、より激しいおまえの戦意をかきたてるだけだ、ということを、漢奸どもと侵略者どももすぐに思い知るにちがいない。
おまえ、新中国の偉大なる母である重慶は、いつも、そして、あらゆる手段で、いかなる試練をも耐えぬくであろう。
重慶爆撃は1944年まで続きます。しかし、やがて同じ戦略爆撃が東京その他日本の都市の頭上から襲いかかります。ヒロシマ・ナガサキには原爆が投下され、日本は悲惨な戦争を十分に味わうことになります。しかし、重慶に思いを馳せた日本人はほとんどいませんでした。
テルは、花咲く緑の重慶を楽しむことも、敗戦後の日本へ帰ることもありませんでした。1941年生まれの長男・星に続いて、46年に長女・暁蘭(長谷川暁子)を産みました。46年にハルビンで東北行政委員会委員となりましたが、47年1月10日、チャムスで妊娠中絶手術の感染で亡くなりました。同年4月22日、劉仁は肺水腫で亡くなりました。夫婦はチャムスの革命烈士墓に葬られました。
<文献>
「闇を照らす閃光――長谷川テルと娘・暁子」『あごら』253号(1999年)