ダーバン会議・報告書原稿

在日コリアン

 

1 人種差別の記憶と身体
2 NGO宣言・行動計画
3 日本の戦後補償問題
4 ダーバン宣言・行動計画
5 ダーバンのパノプティコン

 

1 人種差別の記憶と身体

 ダーバン会議のさなか、「人種差別反対欧州インターネットセンター」のラルフ・デュロン記者から日本の戦後補償問題についてインタビューを受けた。
 オランダ人であるデュロン記者は、インドネシアで日本軍・性奴隷制にされたオランダ人元「慰安婦」の話を知っていた。二〇〇〇年一二月に東京で日本軍・性奴隷制を裁く民間法廷の「女性国際戦犯法廷」が開かれたときに、オランダ人被害女性が記者会見したのをテレビで見たそうである。そこで、日本の朝鮮植民地支配やアジア侵略について現在の日本政府が実に無責任な対応しかせず、そればかりか在日朝鮮人の人権を抑圧していることを話した。
 取材の後に話していてわかったのだが、デュロン記者自身、実は、植民地支配、ジェノサイド、人種差別の歴史をいわば一身に背負っている人物であった。
 祖父はアルメニア系オランダ人である。世界で最初にキリスト教を国教としたことで知られるアルメニアは、オスマン・トルコとロシアの中間に位置している。第一次世界大戦時、トルコ軍は、アルメニア人がロシアの味方をするのではないかと疑って、アルメニアを包囲し、アルメニア人を移住させたり、攻撃した。トルコ軍による移住政策の結果、アルメニアでは一五〇万人が死んだと言われる。トルコ政府自身も数十万人が犠牲になったことを認めている。ただ、それは虐殺ではなく、移住の最中に生じた不幸な事態であるとして責任を回避しようとしている。当時、アルメニアから国外に逃亡した人の数は残った人の数よりも多いといわれている(現在のアルメニア人口は三八〇万人)。アルメニア人は世界に離散したために「第二のユダヤ人」とも呼ばれる。この出来事は、今日、アルメニア・ジェノサイドと呼ばれる(「ジェノサイド」という用語自体は、一九四四年にラファエル・レムキンが造語したものだが、アルメニア・ジェノサイドはその最初の例として知られる)。二〇〇一年になって、フランス議会は「アルメニア虐殺はジェノサイドであった」と確認する決議を行い、トルコ側が態度を硬化させる外交問題となっているほどで、未だに「過去」の問題ではない。
 第一次大戦後の戦後処理のなかで、アルメニア・ジェノサイドの責任追及が試みられ、介入したイギリスはトルコ軍人を逮捕したりもしたが、実際にはほとんど裁かれなかった。第一次大戦の戦後処理において構想された戦犯裁判は、第一にドイツ皇帝ヴィルヘルム裁判、第二にアルメニア・ジェノサイド裁判であったが、ともに実現しなかった。国際戦犯裁判は第二次大戦後のニュルンベルク裁判が第一号となる。デュロン記者の祖父もこの時にアルメニアからオランダに逃げたという。そしてフランス系オランダ人と結婚し、デュロン姓を名乗った。
 その息子、つまりデュロン記者の父親はインドネシアに移住したようだ。いつオランダに帰ったかは聞き損ねたが、両親はオランダでデュロン記者を産み育てた。デュロン記者にとって日本軍・性奴隷制問題とは、まかり間違えば自分の母親が「慰安婦」にされたかもしれない問題なのである。すべての朝鮮人にとって日本軍「慰安婦」問題が自分の問題でありうるように、デュロン記者にとってもそれは自分の問題である。
 第一次大戦時のアルメニア・ジェノサイドと第二次大戦時の日本軍「慰安婦」。二つの歴史的な人道に対する罪の被害者側に立つデュロン記者は、しかし、同時に加害者の側にいる自分にも十分に自覚的である。
 インドネシアは、オランダが四〇〇年にわたる植民地支配を行った地である。オランダ人元「慰安婦」は日本軍による被害を受けたが、地元のインドネシア人との関係では否応なしに植民者の一員であったのだ。オランダがある時期、一つの巨大な「帝国」として世界分割に乗り出し、植民地支配を行った歴史を消せない以上、デュロン記者は、加害側の国民でもある自分に、植民地や人種差別の問題を問いかけつづけることになる。
 デュロン記者は法律学を学び弁護士資格を取ったが、人種差別に反対するNGOに参加して活動し、ダーバン会議に参加した。ダーバン――ここもまた、かつてオランダが植民地支配した町である。南アフリカは、イギリスの植民地になる前はオランダの植民地であった。だからこそデュロン記者はダーバンに来なければならなかった。
 デュロン記者の身体を、アルメニア・ジェノサイド、オランダのインドネシア植民地支配、日本軍・性奴隷制、オランダのダーバン植民地支配の記憶が貫通している。ダーバンの地で、彼が日本人を探して、私に辿り着いた由縁である。
 ダーバンに集まった一万七千といわれる世界のNGO活動家や被害者たちのそれぞれに、近現代世界の戦争と植民地支配、ジェノサイドと人道に対する罪、アパルトヘイトと人種差別の過去が影を落としていたのであろう(1)
 侵略した側の、そして過去の犯罪の責任をとろうとしていない側の一員として、デュロン記者のインタビューは、記憶に深く刻み込まれ、残りつづけるものであった(2)。

2 NGO宣言・行動計画

 在日コリアンの代表は、アジア女性人権評議会とエル・タラーが主催した「人種差別反対女性法廷」に参加して、在日コリアンの状況をアピールした。
 「人種差別反対世界女性法廷」はアジアやアフリカの女性団体が開催した二〇〇一年三月の「女性に対する暴力世界女性法廷」に続く企画で、主催はNGOの「アジア女性人権評議会(本部・フィリピン)」と「エル・タラー(本部・チュニジア)」である。「女性法廷」には、キューバ、ブラジル、カナダ、ハワイ、マーシャル諸島、ニュージーランド、フィリピン、インドネシア、インド、アフガニスタン、ボスニア、ルーマニア、パレスチナ、アメリカ、そしてアフリカ諸国から四〇名の証言者が集まり、貧困と飢餓、核実験による放射能汚染、先住民族の土地の略奪、多国籍企業による環境破壊、軍事基地と性暴力犯罪などのテーマで証言と報告が続いた。
 女性法廷には「在日本朝鮮人人権協会」事務局の金静寅(キム・ジョンイン)さんが参加してつぎのように証言した。
 <日本の植民地支配(侵略と民族抹殺政策)の結果、私の祖父は幼い父を連れて日本に渡らざるをえなかった。先祖伝来の土地も家も奪われ、民族の言葉や氏名を奪われただけではなく、多くの男性が日本各地に連行されて、軍需工場、炭坑、鉱山などで強制連行・強制労働された。女性の中には戦時性奴隷とされた被害者がいる。日本の敗戦による「解放」後も、日本は謝罪も補償もせず、それどころか、在日朝鮮人は半世紀にわたって差別され、抑圧されてきた。今日も年金差別、民族教育の抑圧、チマ・チョゴリ事件、公安調査庁による不当調査の被害を受けている。現在の歴史教科書問題も、単に教科書だけの問題ではなく、朝鮮人の歴史と苦難をなかったものとし、現在の差別をも隠蔽するものである。>
 金さんの発言は、日本による朝鮮植民地支配、そこにおける略奪と民族性の破壊、生活と文化の破壊、その結果としての人々の都市への流出や、日本への強制連行と強制労働、戦時性奴隷制の歴史を簡潔に紹介し、戦後になっても差別が続き、今日もチマ・チョゴリ事件のような被害者が生じていることを訴えた。金さんは現在の問題を四点に限って紹介している(3)。
 第一に年金差別である。日本政府は国民年金制度を創出したが、「国民」年金という名のごとく国籍条項を付していたから、長い間、在日コリアンは排除されてきた。一九九〇年代になってようやく差別の是正が実現し、在日コリアンも年金に加入できるようになった。ところが、経過措置が講じられなかった。国民年金は掛け金の納付と年金の受給からなるから、掛け金を納付してこなかった在日コリアン高齢者は未だに国民年金から排除されたままである。在日コリアンは国民年金の掛け金の納付者としてだけ位置づけられている。
 第二に、民族教育の抑圧である。朝鮮学校に対する社会的差別も存続しているが、何よりも日本政府自身が一九六五年の文部次官通達のように朝鮮学校差別を継続している。国立大学受験資格差別問題や看護婦試験受験資格差別問題もその一つである。朝鮮学校にたいする助成金差別も続いている。
 第三に、チマ・チョゴリ事件である。一九八九年、日本政府が「パチンコ疑惑」騒動を起こすと、チマ・チョゴリを来たコリアン女生徒が狙われる事態が生じた。暴言と暴行の被害が続発した。一九九四年の「核疑惑」騒動では、チマ・チョゴリを切る、髪の毛を切る、殴るといった事件が発生した。一九九八年の「テポドン疑惑」騒動でも同じである。朝鮮半島と日本列島をめぐって政治的事件が起きると、日本社会は在日コリアンに対する差別と排斥を露骨に示す。
 第四に、公安調査庁による不当調査である。二〇〇一年八月に発覚したが、全国各地の自治体で、公安調査庁が在日コリアンの外国人登録原票等を不当に閲覧していたものである。一九九六年の小平事件で、小平警察署による外国人登録原票不正閲覧が指摘され、法務省通達にも違反していることが問題となったにもかかわらず、今回、公安調査庁が違法活動を続けていたことが発覚したのである。
 金さんは、世界各地の悲惨な証言が続いたので、自分の話はさほどインパクトがないかもしれないと懸念していたというが、地元の新聞『マーキュリー』は金さんの証言を写真入りで掲載した。
 NGO宣言は、奴隷制や人種主義等の犠牲者のあらゆる形態の賠償に対する権利を認め、人道に対する罪としての、奴隷貿易、奴隷制および植民地主義が、アパルトヘイトあるいは他の人種分離政策によって強化されたと述べている。
 そして、奴隷貿易、奴隷制、植民地主義、外国による占領、アパルトヘイト、人種差別から、すべての公的生活において、人種主義と差別の犠牲者の完全かつ平等な参加に対する障壁となりつづける構造的人種主義の現代的諸形態まで断ち切れない鎖が存在していると確認している。
 また、戦争の犠牲者に賠償の必要を確認したうえで、人種主義、外国人排斥に直面し、政治的、経済的、社会的機会へのアクセスを欠いているアジア人およびその子孫は、市民権と自由を否定され、また、とくに暴力的憎悪犯罪、人種的偏見、差別的雇用、不公正な移民政策と慣習の犠牲者となっている、とする。
 さらに、教科書やメディアについて、アジア人およびその子孫が、その居住する国々に対して行なった貢献にも拘わらず、また、これらの国々での彼らの長い居住の歴史にも拘わらず、学校教科書やメディアが紹介する歴史において、彼らの役割は引き続き事実を歪曲されたり、触れないままにされている、としている(4)。
 女性に対する差別についても、女性のアジア人およびその子孫は、とくに、グローバリゼーションおよび性差別主義や人種主義、貧困の交差性の負の効果の多くに苦しめられていることを、われわれは懸念をもって留意する。例えば、アジア人女性は、伝統的で歴史的な拒絶の態度ばかりでなくメディアにおいても、従順でエキゾチックな性的対象としてはっきりと描写され、その結果、売春婦として、通信販売で買う花嫁、家政婦、低賃金労働者あるいは搾取工場の労働者、そして、債務に縛られた無給労働者として、売春目的の人身売買の対象という弱い立場におかれている、としている。
 他方、行動計画では、国連と各国に、人道に対する罪の被害者への補償を要請している。
 「普遍的に承認された人権規範と基準に従って、人種・皮膚の色・カースト・門地(世系)・エスニシティ・先住民族・国民的出身に基づいた人道に対する罪の犠牲者であるすべての民族・集団・その構成員に補償が提供されるよう保証するべきである。」
 「一部のエリートだけにではなく、被害を受けた大衆にも届くような、また被害を受けた人々の特別の性格を考慮して、人道に対する罪と人権侵害の被害者のための賠償計画を策定するべきである。」
 賠償の内容については、次のような提案をしている。
 「大西洋越え奴隷貿易、サハラ地域越えおよびインド洋越え奴隷貿易、奴隷制、植民地化という文化的、人口的、経済的、政治的、社会的、道徳的犯罪についての賠償の原則を認め、アフリカ人とアフリカ系子孫の被害者が賠償の形式・方法を決定する権利があることを認めるよう、われわれはすべての国家に呼びかける。」
 「盗まれた文化工芸品、金、お金、鉱物資源の返還および大陸の土地の返還を達成するための公式の法的措置をとるよう、われわれは関連するすべてのアフリカ諸国に呼びかけ、これらの措置を支持するよう国際社会に呼びかける。」
 国家、メディア、学術機関に対しては、教科書、講座、ならびに娯楽・ニュースメディア両面での適切で多様な描写を促進することにより、また適切な認可・規制機関を通したメディアへの公正なアクセスを確保することによって、アジア人およびその子孫についての人種主義や外国人排斥、ステレオタイプにとりくむよう、われわれは要求する、としている。
 また、ジェンダーに関連する差別について、とりわけ武力紛争時における女性に対する暴力について、 武力紛争下のすべての当事者に国際刑事裁判所ローマ規程に定められた規則を遵守するよう要請し、国家ならびに国際社会は、とりわけ武力紛争下におけるあらゆる形態の人種差別ならびに女性の人権侵害と闘うべきであるとした。紛争下におけるレイプまたはその他のジェンダーに基づく犯罪に関する公平かつ独立した捜査ならびに訴追を行うよう求め、レイプは戦争犯罪であることを明らかにし、記録し、早期警報システムの手段として、調査ならびに情報収集を行うことも要請した。
 さらに、教育カリキュラムならびに軍隊(警察)への研修に、人権研修、平和の文化およびジェンダーに敏感な研修を盛り込むことや、教材からステレオタイプや歴史的偏見を取り除き、ナショナルおよびエスニック・マイノリティ、人間の移住、植民地主義および女性の人権の歴史についての教育を強化すること。障碍者に対する差別を撤廃するために、障碍をもつ女性の問題が公教育の中に盛り込まれるべきであるとした。
 チマ・チョゴリ事件のような、在日コリアンに対する重大人権侵害と憎悪犯罪(ヘイト・クライム)に関連する項目も盛り込まれている。
 「われわれは国家に対し、憎悪犯罪を犯した者は適切な場合、その国籍にかかわらず、訴追させるよう引き渡すことを求める。」
 「こうした凶悪な憎悪犯罪の被害者に対する国際的な保護をすすめる政策を策定し実施すること。性暴力を含む憎悪犯罪に対する人権法や国連条約の実施を確保する効果的な手段を講じ、監督すること。人種主義的憎悪表現や人種主義グループを非合法化する政策や措置を進めること。」
 「ここで取り上げられている民族浄化、民族紛争、思想的・文化的ダリット根絶、憎悪犯罪などの問題を調査する委員会および報告者制度を設置し、世界各地に事務所を配置するなど、国連内において新しい課題を認識するよう奨励すること。」
 「人種主義、人種差別、憎悪犯罪、体系的民族浄化、ジェノサイドに関わるプロパガンダやメディアの偏向に対処するための機構を設置し、十分な資金を提供するよう国連に奨励する。また国際社会において被抑圧者の解放とこれら凶悪犯罪への理解をすすめられるように、差別、憎悪犯罪、民族浄化、ジェノサイドに関する教育と訓練を政府と国連が行い、ジュネーブ・ニューヨーク以外の地域に事務所を設置するよう求める。国連に対し、この目的のため監視・宣伝を行うよう求める。」
 そのためのNGOの役割について、NGOは国連に対し真剣に憎悪犯罪に対応するよう強く求めるとともに、憎悪犯罪や暴力と闘い、犯人を処罰する国内法制度を求めて声をあげるべきである、としている。
 すべての政党は特定の集団を排除しない政策を進め、人種・民族・宗教・言語・カーストに関する否定的なイメージの利用を禁じなければならないとし、教育が特定の集団を排除せず、差別や憎悪犯罪の永続化を防止できるよう、教育を監視することは重要である。また特定の人種およびエスニック・マイノリティ、先住民族、カースト、とくに女性、子ども、障碍者、宗教的マイノリティ、社会変革や自己決定を要求している共同体、その他憎悪犯罪の対象となっているグループがメディアにより非難、一般化、レッテル張り、ステレオタイプ化、偏向の対象とされていないかどうかメディアを監視することも重要であると確認している。

3 日本の戦後補償問題

 開催前から予想されていたことだが、宣言と行動計画を作成する政府間会議は当初から紛糾した。
 過去の補償問題では最後の最後まで激しい攻防が続いた。準備段階のテヘラン宣言やダカール宣言には、植民地支配や奴隷制についての謝罪と補償の要求が明記されていたのに、事務局が用意したダーバン宣言案にはそれが盛り込まれていなかった。当然、アフリカ諸国とカリブ諸国は団結して攻勢に出た。本会議場では、キューバのカストロやPLOのアラファトに続いて、アフリカ各国の元首や大臣たちが次々に立って謝罪と補償を求め、奴隷制が人道に対する罪であったことを認知するよう迫った。
 これに対して、先進国(旧宗主国側)は、事前の第三回準備会議以来、JUSCANZ案(日本・アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド等案)を用意し、アフリカ案やカリブ案にぶつけた。「人道に対する罪、謝罪、補償は認めない」というものである。
 イギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルが前面に出ず影が薄かったのは、最大の植民地保有国で、過去の補償が決議されたりすると、それこそ国家の存亡にかかわりかねないからであろうか。カナダが前面に出て、ベルギーやフランスが後押しをしながら、ケニアやハイチと激突を繰り返した。アメリカが退席した後、アフリカ諸国はますます強硬になって「現在の経済債務を無条件かつ即座に帳消しにする」という「徳政令条項」を要求した。押しつけられた経済債務の拒否でもある。
 実は日本政府は「謝罪は認めるが、補償義務や人道に対する罪は認めない」という立場であった。日本政府は「慰安婦」問題についてすでに「お詫び」をしているが、これを英語では「謝罪(apology)」と翻訳した。国連人権委員会にも繰り返し報告している。「お詫び(apology)」とするのは翻訳のごまかしであるが、国際的にいったん「謝罪」としたためか、ダーバンにおいても「謝罪条項が入れば、それは認めて構わない」という姿勢であった。NGOは「それなら西欧諸国に謝罪を認めようと働きかけてはどうか」と提案したが、それはできないと、働きかけることはしなかった。それどころか、日本政府はほとんど発言せず、参加者から「奇妙な沈黙」と称された。日本政府は行動計画作成委員会にもほとんど出席していない。日本政府の関心は過去の補償問題だけにあり、宣言に補償条項が入らないように活動していたようである。
 総会会場ではアフリカ諸国やカリブ諸国が過去の植民地支配と奴隷制について弾劾し、謝罪と補償を求める演説とロビー活動を繰り広げた。当然、日本に対しても同様の批判がつきつけられた。
 たとえば、韓国政府は、国境を越えるグローバリゼーションのもとで悪化している人種差別と、女性に対する暴力問題に注意を喚起して、武力紛争時における強姦事件等の残虐行為がバルカン半島などで続いているのは、過去の性暴力犯罪が不処罰に終わっているためだと追及した。さらに、日本軍・戦時性奴隷制という重大な戦争犯罪について日本は責任を回避しており、最近の歴史教科書問題に見られるように反省していないと弾劾した。
 また、朝鮮政府は、創氏改名や「日鮮同祖論」の歴史を取り上げて、植民地支配は一つの国民を根絶しようとする最悪の政策であり、朝鮮では六〇〇万人が強制労働させられ、一〇〇万人が殺され、二〇万人の女性が性奴隷制を強いられたと指摘し、日本はいまだに過去の犯罪の解決を拒否していると訴えた。さらに、いまだに在日朝鮮人に対する差別が繰り返されていることと、歴史教科書問題があることをあげたうえで、人種主義と侵略に汚れた過去を清算するよう日本政府に求めた。
  中国政府は、日本政府の直前の発言順だった。アジア、アフリカ、アメリカにおける植民地支配と奴隷制について言及して、日本を名指しこそしなかったが、「こうした犯罪は繰り返されてはならず、悲劇を回避しなければならない。アジアにおいて過去に侵略、植民地主義、奴隷化を犯した諸国は、その歴史に向き合い、歴史から学ぶべきである」と述べた。
 一方、日本政府はダーバンに大臣を派遣しなかった。小人数の代表団で、丸谷佳織・外務政務官が政府代表として発言した。発言では、戦争と植民地支配について言及したが、アジア太平洋諸国の被害については「戦争が悪い」といった一般論を述べたにすぎなかった。現在の差別についても、在日朝鮮人、アイヌ、同和地区住民、外国人の存在をそれぞれ僅か一行で紹介しただけであった。アジアと世界に向けてどのようなメッセージを発しようとしたのか。歴史的に形成されて現在も続いている差別について、いかなる対処をするのか。その点についての姿勢がよく見えないのは残念であった。

4 ダーバン宣言・行動計画

 宣言と行動計画は九月七日にはまとまらず、会議は一日延長となり、八日に宣言と行動計画を採択して終了した。
 過去の補償問題については、植民地支配の時期の奴隷制が人道に対する罪であったことは認めたが、謝罪と金銭補償は認めない線で妥協が成立し、宣言にはつぎのように表記された。
 「人種主義、人種差別から生じた人権侵害被害者が、法律扶助を含む司法へのアクセス、効果的かつ適切な保護と救済を補償されるべきである。それには差別の結果として被った損害について正当かつ相当な補償または補償が含まれる」。
 しかし、この条項は金銭補償の義務を含んではいない。
 このため、会議の結末については「大いなる失敗」との評価も示された。日本関連NGOの記者会見の際にも、記者は冒頭に「今回の会議の失敗をどう考えるか」と質問した。しかし、植民地支配四〇〇年の補償問題を本気で取り上げれば、会議は決裂する以外ない。現に第一回会議(一九七八年)も第二回会議(一九八三年)も決裂して、南側諸国による宣言が採択されたが、この宣言はほとんどまったく効力を生じることができなかった。今回も決裂すれば国連の機能にも多大の影響を及ぼす。アメリカが退席したにもかかわらず、EU諸国が最後まで残ったことの意味は大きい。そして、先進国側が人道に対する罪と認め、アフリカ側が金銭補償をとりあえず断念するという双方の妥協により、和解への一歩を踏み出せたことにこそ意義を見出すべきである。
 ダーバン宣言は次のようにも述べている。
 「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容が武力紛争の根源の一つであり、武力紛争の帰結として生じることが非常に多いことを認め、非差別が国際人道法の基本原理であることを想起する。武力紛争のすべての当事者に、この原理を誠実に遵守し、各国および国際共同体に、武力紛争の間には特に用心深くし、すべての形態の人種差別と闘い続ける必要を強調する。」
 「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容によって被害を受けた個人や集団の人権と基本的自由の侵害についての不処罰を終わらせる必要を確認する。」
 「世界の一部にいまだに奴隷制と奴隷類似慣行が存在している事実を強く非難し、重大人権侵害であるこうした慣行を終わらせるために優先事項として即座に措置を採るよう各国に促す。」
 「すべての形態の人身売買、とくに女性と子どもの人身売買を予防し、これと闘い、廃止する緊急の必要を確認し、人身売買の被害者が特別に人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容にさらされていることを認める。」
 こうした認識を国際社会が共有していくことが大切である。
 閉会式で、ズマ議長は次のように述べた。
 「われわれは出来事が荒れ狂う海の中に、それぞれの岬を見つけ出し、予期した出来事にも予期していなかった出来事にも創造的に対応しなければならなかった。春に咲き誇る花のように、新しいスタートと新しい道路地図に合意を与えた。奴隷制と植民地主義による略奪が、黒人に非人間的で衰退させる影響を与えてきたことを確認した。奴隷制が人道に対する罪であること、被害を被った者の尊厳と人間性を回復するために、金銭補償ではないが、謝罪が必要であることが合意された」。
 ズマ議長は、新しいスタートに立ったことを宣言し、人道に対する罪と認めたことが謝罪が必要であることを認める新しいスタートなのだという解釈を示した。
 同様にメアリ・ロビンソン人権高等弁務官は次のように述べた。
 「ダーバンは始まりであって、決して終わりではない。フォローアップがなされなければならない。ここで合意した文書は、諸政府が実施しなければ、意味のないものになる。市民社会は諸政府と協力してこの仕事を行い、ダーバンでの公約が尊重されるようにしなければならない。実に消耗する九日間であったので、休憩がみんなのためになるだろう。だが、休憩が長すぎてはいけない。私たちの前にはなすべきたくさんの任務があるのだから」。
 ダーバンからの長い道への新しいスタートの強調である。
 九月八日、ダーバン会議最終日には、「消耗する九日間」の激論を踏まえてまとめあげられたダーバン宣言は、「春に咲き誇る花のように、新しいスタートと新しい道路地図に合意を与え」た。この新しい「道路地図」を手に、人種差別克服のためのダーバンからの長い道を各国やNGOがどのように歩いていくのかが問われている。
 日本についても同様のことがいえる。日本軍「慰安婦」問題は、国連人権機関における一〇年にわたる議論の結果、戦時性奴隷制であったことが明確になった。朝鮮人・中国人強制連行・強制労働についても、奴隷の禁止違反にあたるのではないかという議論が国際的に広がっている。
 日本政府は、人道に対する罪であったことを否定してきたが、ダーバン宣言は日本政府の立場をますます困難にしている。大西洋を越えた奴隷制やインド洋を越えた奴隷制と同様に、<現代東アジア奴隷制・奴隷類似慣行>の調査・研究を進め、補償に向けた取組みを強化する必要がある。

5 ダーバンのパノプティコン

 ダーバン市内にある「アパルトヘイト博物館」の訪問者は、最初に「ダーバン・システム」について学ぶことになる。植民者であるオランダ人が、現地の黒人を管理・支配した制度である。これが後にイギリスによる植民地支配を経て、南アフリカにおけるアパルトヘイト制に発展していった。
 入口には、高さ二メートルもの「労働許可証」の模型が置かれている。労働許可証には、氏名、生年月日、住所、そして許された職場や労働日についての記載がある。日本の外国人登録証システムを思い起こさせる登録手帳である。その隣には、黒人に対して居丈高な職務質問をする白人警察官の立像が立っている。そして、奥には、当時の黒人の狭くて不潔で暗い住居のモデルが設置されている。
 博物館の展示品の多くは模型であるが、当時の写真も多数掲示されている。黒人を収容した檻。「白人専用」と書かれた公園のベンチ。そして、数々の差別と抑圧の記録の最後に、パノプティコンが目に飛び込んでくる。
 「パノプティコン(Panopticon)」とは、ジェレミィ・ベンサムが一七九一年に執筆したパンフレットで提案した刑事施設のモデルである。
 「ベンサムは一七九一年にパノプティコンといわれる一望可能な放射式監視施設の建設提案をしている。これは懲治施設を自由な労働に依拠した工場に見立てるものであり、その施設における受刑者の労働力および生産の維持など管理および運営は政府による規制、介入を受けず、請負契約を交わした企業主の利益考慮に委ねようとするものである。したがって、懲治施設の管理、運営は資本主義企業の自律的な市場メカニズムにまかせるものであり、従来の矯正施設の実践を引き継ぐものであった」(5)。
 パノプティコンとは、上から見ると、中央に監視塔が立ち、その周囲をぐるりと円形の独居房が取り巻いた形の刑事施設である。中央の監視塔からはすべての独居房を見ることができるが、それぞれの独居房からは監視塔の中が見えない。「見る者」と「見られる者」との一方向的で絶対的な関係が措定される。独居房に収容された受刑者は、命じられた作業をこなさなくてはならない。監視人は中央に一人いれば足りるから極めて効率的である。そればかりではない。時には監視塔が無人であり、誰も監視していなくても、「見られている」受刑者は、紀律を自ら内面化して作業に従事することになる。
 近代社会=国家の形成・確立過程において、監獄や学校や軍隊において「見る者」と「見られる者」、「命令する者」と「命令される者」との関係の継続・反復のなかで、人々に近代的な紀律が内面化していき、社会に紀律・秩序がもたらされ、資本主義的労働力能のある近代的身体が形成される。その思想をもっとも効率的に表現したのが、ベンサムのパノプティコンである。それを産業化された都市社会における新しい監獄の誕生として位置づけたのはフーコーの『監獄の誕生』(『紀律と監視』)であった。
 ダーバンのアパルトヘイト博物館には、パノプティコンの模型が展示され、案内板にはフーコーの『監獄の誕生』の一節が書かれている。アパルトヘイトこそ現代のパノプティコンなのだ。ベンサムのパノプティコンは刑事施設のモデルとして設定されていたが、それは刑事施設だけではなく、社会における紀律と監視のメカニズムの集中的表現である。支配と管理の巧みな技術である。アパルトヘイト博物館の学芸員がパノプティコンに着目し、ダーバンには実際には存在しなかったパコプティコンの模型を設置したのも、頷けるところである。
 在日コリアンにとってもパノプティコンは無縁の存在ではない。
 例えば、植民地時代に「日本人になる」ことを強制された朝鮮人にとって、日本語を習得し、「臣民の誓詞」を暗唱し、工場において働ける労働力となることが要請される。「日本人になる」ことが「近代人になる」ことでもあったであろう。
 戦中においては、「協和会手帳」が導入され、戦後はそれが「外国人登録証」となった。植民地化によって「日本人」にさせられたのに、戦後は天皇の命令によって「外国人」にさせられた在日コリアンは長い間、外国人登録証の常時携帯義務を課せられた。警察官の要求があれば提示する義務も負わされた。これを「犬の鑑札」と呼んだり「アパルトヘイト」と呼んだのが決して大袈裟ではなかったことは、アパルトヘイト博物館の「労働許可証」を見れば一目瞭然である。
 現在、外国人登録証常時携帯義務は大幅に緩やかなものになった。指紋押捺義務も基本的にはなくなった。しかし、外国人登録法による各種の義務は今も続いている。そして、植民地支配時代に形成され、戦後も外国人登録法による管理体制のもとで確立してきた日本社会の朝鮮人差別意識は払拭されていない。 むしろ、朝鮮半島と日本列島をめぐる政治的危機のたびに、チマ・チョゴリ事件のような形で差別が吹き出す。石原慎太郎都知事のような露骨な差別主義者が任期を博し、無責任な差別発言を撒き散らす。政府はそれを諌めるどころか、擁護してまわる。
 在日コリアンはいまなお目に見えないパノプティコンの囚われ人ではないか。

 すでに下記の報告を行った。前田 朗「人種差別に反対する世界会議に参加して」『民族時報』九五五号(二〇〇一年)、同「ダーバン会議――人種差別撤廃への到達点」『世界』六九四号(二〇〇一年)、同「植民地支配、奴隷制で日本を追及――過去の補償問題をめぐって」『週刊金曜日』三八三号(二〇〇一年)。本稿はこれらを再編しつつ、加筆したものである。
 私自身のことも若干付け加えておこう。札幌出身の私は「屯田兵」の子孫である。明治維新政府が「蝦夷」を「北海道」に改め、屯田兵という名の開拓者(=侵略者)をアイヌモシリに送り込んだのは一八七〇年のことである。最初の入植地は琴似(ことに)と発寒(はっさむ)であった。琴似には「十二軒」とか「二十四軒」という地名があるが、これは屯田兵の住宅の数を示している。琴似は私が生まれて三歳まで住んでいた町であり、発寒は三歳から高校卒業まで育った町である。父方は、札幌の苗穂(なえぼ)という土地と、琴似、発寒に多く居住した。父は農地改革以前は不在地主であった。母方は琴似や西野という土地に入植し、開墾を行った。やはり地主であった。農地改革によって大半の土地を失ったのだが、それでも私が小学生の頃、母方は十ヘクタールほどの土地と山を所有していた。次に、私の二人の叔父は靖国神社に「合祀」されている。一人は「支那事変」に出征し、負傷して広島の陸軍病院に送還されて亡くなった。もう一人は沖縄戦で戦死した。先年、別の叔父が沖縄へ行った際に「平和の礎」に兄弟の名を澪つけたという。私が生まれる前に亡くなった二人の叔父が、中国や沖縄で何をしたか、させられたか、不明である。一方、発寒に移転した当初、「引揚者住宅」が二ヶ所あった。いずれも樺太(サハリン)からの引揚者たちが暮らす住宅であった。戦前は樺太に入植し、敗戦後に北海道に戻った人々である。私の遊び友達の大半は引揚者住宅の子どもたちであった。植民地時代には「日本人」にさせられ戦後は「外国人」にされた朝鮮人が樺太に置き去りにされたことは、ずっと後に知ることになった。
 在日コリアンに対する差別については、在日朝鮮人・人権セミナー『在日朝鮮人と日本社会』(明石書店、一九九九年)参照。公安調査庁による不正調査事件については、前田朗「朝鮮敵視政策と朝鮮人弾圧(一)――公安調査庁によるプライヴァシー侵害」『統一評論』四三七号(二〇〇二年)。
 二〇〇一年には歴史教科書問題が大きな政治問題となった。「新しい歴史教科書をつくる会」という歴史改竄・捏造集団が中学歴史教科書と公民教科書をつくった。戦争賛美・アジア蔑視・女性差別の著しいこの教科書は、同時に数々の間違いを指摘され、とうてい教科書検定を通過できないと考えられたが、文部科学省は無理矢理これを合格させた。これにたいしてアジア各国の批判が高まり、日本国内でも「危ない教科書を許すな」「間違いだらけの教科書はいらない」との批判が強まり、教科書採択率は一%にも満たなかった。とはいえ、歴史教科書問題において、日本の反動勢力と政府とがアジアに誠実に向き合う姿勢を持たず、それどころか差別とむき出しの拝外主義に貫かれていることが明らかになった。教科書問題は、二〇〇一年八月の国連人権促進保護小委員会や、社会権規約に基づく社会権委員会の審議や決議・勧告でも取り上げられた。また、二〇〇一年八月の小泉首相の靖国神社参拝問題も国際的な議論を呼び起こした。アジア各国の戦争被害者はもとより、欧米のメディアでもかなり詳しく紹介された。人権促進保護小委員会でも靖国参拝問題がクローズアップされた。「二度と戦争をしないため」などと称して靖国参拝を強行した小泉首相は、一ヶ月後にはアメリカのアフガニスタン戦争に協力し、無責任ぶりを露呈した。前田朗「人権小委員会五三会期の慰安婦問題」『統一評論』四三四号(二〇〇一年)、同「人権小委員会五三会期――朝鮮学校」『統一評論』四三五号(二〇〇一年)、同「社会権委員会の日本政府報告書審査」『統一評論』四三六号(二〇〇二年)参照。
 三宅孝之『英国近代刑罰法制の確立』(大学教育出版、二〇〇一年)。