統一評論・書評

NGOは国家の論理を超えてきたか?
中野憲志編『制裁論を超えて――朝鮮半島と日本の<平和>を紡ぐ』(新評論)

            

 本書は、藤岡美恵子・越田清和・中野憲志編『国家・社会変革・NGO』(新評論)と執筆者がほとんど重なっている。NGOとして永年活動し、NGOの意義や限界を考察してきた著者たちは、「北朝鮮問題」とNGOの「関係性」に着目する。(本書では、その問題点を指摘しつつ、「北朝鮮」という呼称が採用されている。評者は通常「朝鮮」という呼称を用いるが、以下では本書に従う。)
 日本のNGOは長期にわたって北朝鮮を無視して活動してきた。拉致問題以後は無視というよりも敵視である。国境を越えるはずのNGOが、むしろ国境の垣根を固定化し、国境の内側で「国策」に従って思考し、活動してきた。NGO(非政府組織)でありながら国策に従う、政府による政府のためのNGOすらある。GONGO(Governmental NGO)とも呼ばれる。こうした状況に疑問を抱く著者たちは、「北朝鮮問題」そのものに切り込む。
 本書の執筆目的は次の五点にまとめられている。一 制裁の論理を乗り超えるオルタナティブを提示すること。二 北朝鮮バッシングによって助長される排外主義と「自民族中心主義」を批判すること。三 平和、人権を唱える非政府組織(NGO)や研究者の「二」に対する沈黙を問うこと。四 「北朝鮮問題」の政治利用を通じた日米両政府の国家戦略(核安保同盟の強化)を分析し、批判すること。五 国家や国連の論理にからめ取られず、北朝鮮の人びとへのまなざしを見失わないこと。つまり、「北朝鮮問題」とは「日本問題」であることが認識されている。 
 中野憲志(先住民族・第四世界研究)は、日本と朝鮮に関連する言説にはさまざまな二重基準が織り込まれていると指摘する。すなわち、政治は二重基準に満ちている。その二重基準を正当化するためにマスメディアは情報操作の道具と化し、二重基準を隠蔽する言説が流布される。大学知識人や専門家が動員される。北朝鮮をめぐる「情報」や言説とは、こうした二重基準の矛盾が最も集約的に表出される<場>である。核開発問題では、すぐにでも日本が朝鮮から核攻撃を受けるかのような恐怖を煽る「報道」が繰り返され、朝鮮バッシングの道具と化す。その一方では、超核大国の米国やロシア、中国の核兵器や大量破壊兵器の存在は不問にされる。二重基準は徹底的に適用される。拉致を「国家テロ」とするこの国の政府によって、朝鮮の人権侵害が執拗に取り上げられる一方で、在日社会に対する民族差別や暴力は見過ごされてしまう。
 藤岡美恵子(法政大学講師)は、朝鮮バッシングや在日朝鮮人に対する差別の現実を、「植民地主義の継続」という視点で再検討する。日本は、第二次大戦後、アメリカによる実質的な単独占領によって、アジアにおける脱植民地化のプロセスを回避してきたこと、そのため植民地主義的意識が根強く残っていることが確認される。また、藤岡は自治体などで進められている「多文化共生」にも両義性があり、多文化共生論と植民地主義が「両立」してしまい、その克服につながらないと指摘する。国境に囚われたNGOは、国内にも差別的な線を引くだろう。
 LEE Heeja(い・ひじゃ、在日韓国人二世)は、在日韓国人二世の一人としての自己を確認し、朝鮮核問題と日本人の当事者性とは何かを見つめる。日本による植民地支配と朝鮮半島の分断。広島・長崎の被爆体験。この二つの当事者性が、見事に忘れられてはいないか。ご都合主義的に利用されていないか。東アジアの平和のためには朝鮮半島の政治的安定が不可欠であり、当事者としていかかわっていく主体が問われている。
 宋勝哉(在日コリアン青年連合)は、韓国における朝鮮認識方法論としての「内在的接近」や「内在的・批判的接近」を韓国現代史の流れの中に位置づけながら紹介する。日本における朝鮮認識の一面性と偏りを方法論レベルで解明する。在日コリアン社会においても「内在的・批判的接近」論は定着していないという。朝鮮の立場をそのものとして理解しつつ、批判的に接近することは、逆に言えば、日本の立場をそのものとして理解しつつ、批判的に接近することをも意味する。むき出しのナショナリストだけではなく、人権NGOまでもが自己相対化の限界を露呈している。
 越田清和(札幌自由学校「遊」)は、アジアに対する戦後賠償が旧日本軍の歴史を正当化する論理で進められたため、従来の国際協力が国策としての国際協力であったことを想起し、民衆による国際協力として「平和的生存権に基づく国際協力」を提言する。具体的には、➀人道支援と経済協力、➁ODAとしての「戦争被害者への社会正義基金」、➂朝鮮への無償資金協力、医療・福祉補助、真相究明のための調査資金とすること、が掲げられる。
 最後に、中野憲志は、東北アジアの安全保障問題を直接取り上げる。日米安保条約と日米安保体制が東北アジアの緊張をもたらしている現実を隠蔽して、国内の議論として護憲と改憲が争われている現状を批判し、朝鮮半島の分断、朝鮮戦争、そして今日の米朝関係という歴史を見れば、「北朝鮮問題」が、アメリカによる世界支配の戦略課題のひとつとして生じていることは明らかである。日米軍事同盟により、北朝鮮に「核の恐怖」を押し付けながら、自分は「核の傘」に隠れている。日本政府だけではなく、安保は私たちの日常、労働、研究、生活に浸透している。核軍事同盟である安保からの脱却の途を理論的に拓いていく必要がある。
 本書は「国家」の論理を相対化すると同時に、「民衆」の論理をも反省の俎上に載せる。NGOや研究者の姿勢こそ批判対象となる。現状は「国家」の論理を批判しただけでは足りない。むしろ、「市民社会」自体が矛盾を抱え込んだまま自閉している状況を打開し、グローバルな市民社会の担い手としてのNGOの意義を再活性化させること、NGOが本来のNGOの役割を取り戻すための議論を巻き起こすことが目指される。