旅する平和学(4)
苦悩する太平洋の真珠


 「太平洋の真珠」と呼ばれるマーシャル諸島へ行くには、グアムからコンチネンタル航空のアイランド・ホッパーが便利だ。グアムを飛び立って、いったんチュークに着陸する。再び空へと舞い上がり、ポンペイに降り立つ。次はコスラエだ。ここまではミクロネシア連邦である。コスラエからクワジェリンを経て、マジュロがマーシャル諸島の首都である。アイランド・ホッパーはここからハワイのホノルルへと向かう。

核の植民地

 マーシャル諸島という名前は聞きなれないが、ビキニといえば、すぐにわかるだろう。
 一九五四年三月一日、アメリカはマーシャル諸島のラリック列島北端ビキニ環礁で史上最大の水爆「ブラボー」の実験を行った。近海では多くの日本漁船が操業していた。
マグロ漁船第五福竜丸の乗組員はそれまでおよそ経験したことのない光と音に衝撃を受けた。やがて空から白い粉が降ってきた。広島型原爆の一〇〇〇倍の威力といわれる水爆の爆発による死の灰である。放射性降下物によって、乗組員は被曝した。三月一四日に焼津に帰港後、放射性降下物による被曝が判明した。一一人が入院して治療を受けたが、九月二三日に久保山愛吉が死亡した。ビキニ事件とも第五福竜丸事件ともいう。
 広島・長崎原爆投下後、アメリカとソ連は核軍拡競争を繰り広げた。アメリカは一九四六年からビキニ環礁、一九四八年からエニウェトク環礁で総計六七回の原水爆実験を行った。ミクロネシア地域は、かつて日本の委任統治領とされたが、第二次大戦後、国連によってアメリカの信託統治領とされた。アメリカは「動物園政策」とも呼ばれる閉鎖政策を進め、国際社会から完全に隔離した。太平洋における「核の世紀」(豊崎博光)、「核の植民地」(前田哲男)の時代の始まりであった。
 第五福竜丸や近海で操業していた多くの漁船員が被曝したのだから、ミクロネシアに暮らす人々も被曝していた。
 被曝だけではない。アメリカは、一九四六年一月にビキニ環礁を「クロスロード作戦」実験地とし、住民をロンゲリック環礁に移住させた。同年五月、エニウェトク環礁住民をクワジェリン環礁のメック島に、ロンゲラップ環礁とウォト環礁の住民をラエ環礁に移住させた。四七年一二月、エニウェトク環礁を実験地とし、住民をウジェラング環礁に移住させた。四八年一月、クワジェリンの米軍基地労働者のマーシャル人をイバイ島に移住させた。同年三月、ロンゲリックで飢餓状態に陥っていたビキニ住民はクワジェリン基地に収容されたが、一一月にはラグーンのないキリ島に移住させられた。
 人々は伝統的な生活を奪われ、食糧確保も不十分な土地に追いやられ、たらいまわしされた。核実験終了後も、苦難の日々が続いた。故郷が放射能汚染され、生活と環境は破壊され、癌、甲状腺障害、異常出産などの病気が頻発した。
 二〇〇四年三月一日、マジュロの国会議事堂前で被災を思い起こす「ニュークリア・サバイバーズ・リメンブランスデー」が開催された。参加者は正当な償いを要求している。 アメリカとマーシャル政府の間では「完全決着」したことになっているが、ヒバクシャはさまざまの条約や協定の条項を用いて提訴し、抗議運動を続けている。

もう一つの危機

 マーシャル諸島は軍隊のない国家である。憲法に軍事条項はなく、防衛大臣もいない。 憲法第二条第一一節は次のように規定する。
 「何人も、戦時、又は政府により戦争の差し迫った危険があると認定された場合を除き、マーシャル諸島の軍隊において、兵役につくために徴兵されることはない。また、何人も、そうすることの正当な機会が与えられた後で、戦争に参加することに対する良心的参戦拒否者であることを証明した場合には、徴兵されることはない。」(矢崎幸生訳)
 第一文は、徴兵制の否定である。軍隊そのものを廃止する趣旨とまではいえないが、平時の徴兵制を否定している。実際に軍隊がないが、臨時編成を否定しているわけではない。
第二文は、良心的兵役拒否の規定である。有事であっても一定の要件を満たせば兵役拒否が認められる。兵役拒否権が憲法に規定されているのはひじょうに珍しい。
 日本軍基地であったクワジェリン島がミサイル実験にも利用され、米軍が駐留している。原水爆実験は一九五八年に終了したが、基地は現在も米軍が占有し、マーシャル諸島人も排除されている。また、マーシャル諸島人が米軍に志願することが可能である。
 マーシャル諸島が直面しているもう一つの危機が、地球温暖化による海面上昇である。マーシャル諸島の水位は近年、年平均四ミリ上昇している。太平洋全体の傾向でもある。トゥヴァルやマーシャル諸島のような珊瑚礁の島は海に沈み始めているといわれる。インド洋のモルディヴも同様であり、インド沿岸ではすでに多くの小島が消えたと報告されている。侵蝕と海没は各地で始まっている。
 「北極海の氷河が融けても水の体積は少なくなるから海面は上昇しない」と意味不明のことを唱える「科学者」がいるが、地表の氷河も予想以上に早く融けている。南極の氷河が融け始めれば不可逆的な事態となる。水温上昇による体積増加も指摘されている。
 マーシャル諸島は最高地点が六メートル、平均海抜が二メートルしかない。海岸に立てば太平洋の荒波の威力がまざまざとわかる。満潮時には、遠浅の海岸に白い波が激しく押し寄せる。
 水温上昇は珊瑚にとっても深刻な環境変化であり、珊瑚礁地域の生態系バランスが崩れることも心配である。マーシャル諸島は温室効果ガスをほとんど排出していないのに、先進各国の排出ガスの帰結に直面している。
 なお、マーシャル諸島について詳しいことは、仲原聖乃・竹峰誠一郎『マーシャル諸島ハンドブック――小さな島国の文化・歴史・政治』(凱風社)参照。