週刊金曜日(1)

軍隊のない国家を歩く(1)
ミクロネシア地域

 

 光溢れるポンペイ国際空港に通称アイランド・ホッパーが滑るように着陸した。
 グアム発コンチネンタル航空のアイランド・ホッパーは、チューク(旧トラック)、ポンペイ(旧ポナペ)、コスラエ、マジュロを経てホノルルまで離着陸を繰り返す。天候に恵まれると、「太平洋の真珠」と呼ばれる、きらめく珊瑚の海と島々を上空から眺めることができる。一目見ただけで吸い込まれそうになってしまう。

南洋諸島の記憶

 冷房の効いた機内から出るとむっと押し寄せてくる熱気に一瞬たじろぐが、やがて意外に過ごしやすいことがわかる。車で十分も走ると最大の都市コロニアに着く。首都パリキールはコロニア北部にある首都機能だけの建物群であり、実際にはコロニアが中心だ。本通りとその周辺の小さな通りしかない町だ。
 ホテルに荷物を放り込むと早速本通りを歩いてみる。雑貨屋、電話局、レストラン、ミクロネシア短期大学などを眺めていくと、民家の庭先に置かれた戦車の残骸に出会う。旧日本軍のものだろう。
 ミクロネシアは、一九世紀にスペイン占領からドイツの植民地となった(グアムはアメリカ領)。第一次大戦時に日本軍が占領し、一九二〇年に国際連盟から委任統治領として認められる。国際連盟脱退後は完全に日本の植民地となり、南洋庁が設置された。日本人の手で町がつくられ、農業や漁業など産業開発が進められた。トラック島の海軍基地も有名である。
 第二次大戦ではペリリュー、アンガウル、サイパン、テニアンなど、日本軍と連合軍の激戦の地となった。日本軍玉砕の島々でミクロネシア人がどれだけの被害を受けたか、日本では語られない。
 戦後はアメリカの国際連合信託統治領となり、南洋諸島は日本人の記憶から抜け落ちていく。アメリカが独自のアジア太平洋戦略に従ってミクロネシアを「封鎖」したためだ。一九六五年に独立に向けた動きが始まり、七〇年代から八〇年代にかけて独立が実現する。しかし、ミクロネシアの統一独立は妨害され、五つの政治体に分裂する。ミクロネシア連邦(ポンペイ、チューク、ヤップ、コスラエ)、パラオ共和国、マーシャル諸島という三つの独立国と、アメリカ領グアム、北マリアナ連邦(サイパン、テニアン)である。

われらを結ぶ海

 一九七九年のミクロネシア連邦憲法前文は「われらは、われらの文化の多様性を尊重する。われらの相違点はわれらを豊かにするものである。海は、われらを結びつけるものであり、分割させるものではない」(以下矢崎幸生訳)と謳いあげる。
 植民地支配を受け、委任統治領や信託統治領となり、他国による戦場とされ、大国の都合によって分割された歴史を踏まえて、平和、統一、自由を求める。「ミクロネシアの国は、人々が星の下に航海をした時代に誕生した。すなわち、われらの世界それ自体が一つの島であった」と語り、平和、友情、協力、愛を広げると宣言する。
 アクアマリンのラグーン、エメラルド色の水道、熱帯のマングローブ林、緑豊かなジャングル、謎の海上遺跡ナン・マトール――軍隊のない国家ミクロネシア連邦は、無上の楽園だ。
一日ツアーのボートに乗ってみた。ラグーンを一回りした後、眼の覚めるようなホワイト・ビーチでシュノーケリング。熱帯魚を素手で捕まえることができるのには驚いた。オセアニア最大の巨石遺跡であるナン・マトール遺跡や、ボロブドールの滝を見て帰る。自然と歴史の妙技に浸った一日だった。軍隊のない国家を調査するためにやって来たのに、トロピカル気分の楽園周遊だ。
 パラオ共和国の自然も素晴らしい。沖縄・西表島と雰囲気がよく似ている。グアムに次いで観光開発が進められ、リゾートホテルが増えたので日本人観光客が多い。ダイビングのメッカとして国際的に有名だが、近年は海の透明度がかなり落ちたとの噂もある。
 首都コロールの町並みも日本人がつくったと言われるが、アメリカ信託統治時代にかなり破壊された。それでも随所に日本時代の名残を見ることができる。旧南洋庁の建物は最高裁判所として使われている。神社跡と、参道だった道端には石燈籠も残っている。そして、今日では日本のODAによって近代的な橋が建設され、道路が修復されている。
 ミクロネシア連邦の東にあるマーシャル諸島は、五つの独立島と二九の珊瑚環礁から成る海洋国家だ。首都マジュロは珊瑚環礁の上にあり、海抜二メートルほどの低地である。太平洋に面した海岸に多くの民家が並んでいるが、満潮時には海が激しく迫って来る。地球温暖化による海面上昇はマーシャルにとっては死活問題である。
 ミクロネシア地域には、このほかにナウルとキリバス共和国があり、やはり軍隊がない。軍隊のない国家が五カ国である。ただし、マーシャルには米軍基地がある。パラオに基地はないが、米軍が港を使用できることになっている。
 スイスの弁護士クリストフ・バルビーに教えられて、軍隊のない国家を調べ始めた。バルビーが挙げる二七カ国のうち二四カ国をまわったので、順に紹介していきたい(本誌六五二号[二〇〇七年七月]参照)。そのためには軍隊とは何かを一瞥しておく必要がある。一部に「コスタリカにも軍隊がある」という主張があるのは、定義によって結論が異なるからだ。沿岸警備隊の装備に着目した議論があり、たしかに通常は陸海空軍の武装兵力(実力)を指すが、装備の大小で決まるわけではない。実力装置を内に向ける(国家主権の対内的行使)のが警察であり、外に向ける(対外的行使)のが軍隊であるが、軍隊も治安出動の役割を持つ。国際法上は交戦権の主体となるか否かで判断するが、軍隊と準軍隊の区別は明瞭ではない。国家以外の武装勢力をどう見るかも一義的には決まらない。以上を考慮して、ここでは実力装置の対外的行使、交戦権の主体といった要素に着目しておきたい。

非核憲法の歩み

 歴史に翻弄されてきたミクロネシア地域だが、なかでも深刻なのが核実験である。
 ヒロシマ・ナガサキ原爆投下後、米ソによる核軍拡競争が続いたが、アメリカの核実験はネバダから太平洋に移された。一九四六年からビキニ環礁で二四回、エニウェトク環礁で四三回の原水爆実験が行なわれた。ジョンストン島やクリスマス島でも行なわれたが、ほとんどはマーシャル諸島であった。「核の植民地」(前田哲男)である。イギリスもクリスマス島やモールデン島で核実験を繰り返した。他方、フランスはポリネシアのモルロア環礁やファガタウファ環礁で二〇〇回もの核実験を行なった。米英仏の太平洋地域における核実験総数は三二七回に及ぶという。
 一九五四年三月一日、マーシャル諸島のラリック列島北端ビキニ環礁における水爆ブラボーの実験でマグロ漁船第五福竜丸乗員が被爆したビキニ事件はよく知られるが、隠された真相の解明は今も研究者やジャーナリストによって続けられている。近海で操業していた第五福竜丸が被爆したのだから、マーシャル現地の人々が被爆していないはずがない。アメリカは情報を隠蔽してきたが、ビキニやエニウェトクのヒバクシャによる補償要求運動が続いている。
 こうした悲劇を前に南太平洋諸国は、非核の願いを前面に掲げて一九八五年に南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)を締結したが、アメリカの圧倒的影響下にあったミクロネシア諸国がこれに加わることは困難であった。そこで目指されたのが非核憲法である。
 ミクロネシア連邦憲法第一三条第二節は次のように定める。
「放射性物質、有毒化学物質またはその他の有害物質は、ミクロネシア連邦国家政府の明白な承認がなければ、ミクロネシア連邦の管轄権の及ぶ範囲内において、実験し、貯蔵し、使用し、または処理することはできない。」
 一九八一年のパラオ憲法が非核憲法として有名だが、非核条項はミクロネシアが最初である。もともとパラオはミクロネシア連邦構成州となる予定で、一九七八年のミクロネシア憲法制定に加わったが、結局ミクロネシアから離脱した。一九七八年七月に承認されたミクロネシア憲法に世界初の非核条項が設けられた。パラオ憲法草案は一九七九年四月に作成され、やはり非核条項を盛り込んだ(施行は一九八一年一月)。
 両国はともに非核憲法を持ったが、異なる道を歩むことになる。パラオに基地確保を予定したアメリカは、猛烈な圧力をかけた。アメリカ本土からハワイ、マーシャル、パラオ、グアムを経て沖縄に至るラインを確保するためだ。このため非核条項をめぐって住民対立が生じ、パラオは大混乱に陥った。結局、非核条項を骨抜きにする自由連合協定が結ばれてしまった。一方、ミクロネシアには基地の予定がなかったため、アメリカは放置した。ミクロネシア憲法の非核条項は現在も生きている。
 核実験の直接被害を受けたマーシャルは非核憲法を持っていない。マーシャルは米軍の大陸間弾道弾実験の着弾点としても利用されてきた。アメリカの援助と基地によって成り立っている面があるため、アメリカに従属せざるを得ないのが現実だ。
 ミクロネシア、パラオ、マーシャルは軍隊のない国家だが、だから平和主義だとか、すべてうまくいっているというわけではない。平和や非核への願いと、太平洋の「戦略的位置」の狭間で揺れ動いてきた。国連総会における投票も、多くがアメリカの言いなりになっている。日本と忠犬競争しているかのようだ。
 太平洋の楽園に米軍基地はいらない、と呟きながら、マジュロの海岸で抜けるような青空を見詰めた。この空も海も沖縄と繋がっている――。