週刊金曜日(3)

軍隊のない国家を歩く(3)
メラネシア地域


 南太平洋の音楽にはまっている。各地で入手してきたCDは多彩だ。
クック諸島のマオリ人や、ソロモン諸島人の伝統音楽には感動する。と同時に、内なる「太平洋オリエンタリズム」を自覚させられる。
 ポップスもとてもユニークだ。ありきたりの海外ポップス紹介ではまず目にすることのない名前ばかりで恐縮だが、ニウエの女性ヴォーカル、ヘガ・ケレソマの『ニウエに帰ろう』、男性シンガー、ヴィクタ・タリマの『ヴェラ』も素敵だ。ソロモン諸島のロック・バンド、マダックス・ボーイズの『ゲリ・ゲリ』や、ストランデドの『トロピカル・リズム』は実に快適だ。
 一番のお気に入りはヴァヌアツのバンド、NAIOの『船を出せ』だ。アルバム・タイトルの「船を出せ」や「ホニアラ」を聴きながら、珊瑚の海や夜空の南十字星を思い出して陶然とすることもしばしばだ。

世界一幸せな国

 二〇〇六年七月二八日、シンクタンク「ニュー・エコノミックス財団」とNGO「地球の友」は、世界でもっとも地球に優しく、幸せに暮らす国はヴァヌアツ共和国だと発表した。独自の「幸せ地球指標(HPI)」に基づいて、世界一七八カ国のランキングを行なった。世論調査をもとにした「暮らしの満足度」に「平均寿命」を積算し、二酸化炭素排出量などを数値化した「環境への負荷」で割って算出したもので、「自然環境を害することなく、どれだけ幸せに暮らしているかを示す新しい指標」だという。日本は九五位、アメリカは一五〇位だ。
 ヴァヌアツは長寿国というわけではないが、無闇なリゾート開発を行っていないので、自然の海岸や豊かな熱帯雨林など、恵まれた環境で暮らしている。
 イギリス植民地時代はニューヘブリデス諸島と呼ばれた。第二次大戦時には米軍基地が建設され、ここから連合軍がガダルカナル島に向けて前進したが、戦後は基地が撤去された。
 外交基本方針は、メラネシア諸国との連帯強化、非同盟主義の推進、ニューカレドニア等の独立運動支援、反核政策推進などである。南太平洋非核地帯条約の一員である。
 ヴァヌアツ女性は南太平洋の女性運動の中でも重要な役割を果たしてきた。代表格がグレース・メラ・モリサ(一九四六年~二〇〇二年)である。
 グレース・メラ・モリサは、一九四六年、アンバエに生まれた。南太平洋諸国が協力してフィジーに設立した南太平洋大学に進学し、在学中にセラ・モリサ(後の財務大臣)と結婚した。ヴァヌアツ史上初めて大学を卒業した女性である。一九六七年から小学校や高校の教師だった。
 ヴァヌアツ独立前年の一九七九年、社会問題大臣に依頼されて秘書になった。独立に向けて政治的にも社会的にも大きな変革の波に洗われていたヴァヌアツで、教師から政治の世界に足を踏み入れた。翌年、社会問題大臣が首相となったので、メラ・モリサは首相秘書になった。同時に、憲法起草委員会の委員にも選ばれ、新憲法制定式典(一九七九年一〇月)では、新憲法に署名をする任務を遂行している。新憲法に署名するメラ・モリサの写真が残っている。女性が署名して成立した憲法だ。
 ホテルのフロントや喫茶店で数人の女性に聞いてみたところ「グレースは有名よ」という返事が返ってきた。
 一九九〇年に首相秘書を辞した後、ヴァヌアツ女性運動の中心として活躍を続けたが、ヴァヌアツのみならず、南太平洋における女性運動のキーパーソンとして知られる。二〇〇二年に五六歳で亡くなった。

戦争慰霊碑を考える

 ソロモン諸島も軍隊のない国家である。ただし、部族対立に端を発した暴動事件が起きたため、オーストラリアなどのソロモン地域支援ミッション(RAMSI)が駐留している。
 ソロモン諸島中心のガダルカナル島は第二次大戦の激戦の地であり、「餓島」として知られる。
一九四二年八月、日本軍が建設したルンガ飛行場(現在のホニアラ国際空港)をめぐって連合軍と日本軍が戦い、日本軍一木支隊など約二〇〇〇人が戦死した「血まみれの丘」はアウステン山を中心とした小さな丘陵地だ。「ガ島戦没者慰霊碑」が建っている。
 ルンガ飛行場の東のアリゲーター・クリークが海に出る場所で、一木支隊が「バンザイ突撃」をして全滅した「地獄の岬」は、何の変哲もない小さな海岸である。一九四二年一〇月から日本軍の二師団が上陸したタサファロング岬にも今は静かな波が打ち寄せる。
 一九四三年一月から二月にかけて日本軍はガダルカナル西方のエスペランサ岬やタンベアに撤退したが、一一〇〇〇人の大半がマラリアや下痢など病気になり、餓死した。ホニアラ市内では舗装されている道路が、途中から砂利道になる。ココナツ畑やジャングルを越えて、ガタガタ道を車はゆっくり走る。道路の上を川が流れているところもある。ぬかるみにはまると、車から降りて押さなければならない。そのたびに蚊の大群に襲われる。世界有数のマラリア地帯で蚊と格闘の末、タンベアにたどり着いたときは疲労困憊状態だった。ここにも「ガ島戦没者慰霊碑」がある。
 アウステン山にも戦争慰霊碑がある。血まみれの丘やタンベアでは慰霊碑がぽつんと建っているだけだが、アウステン山には平和記念公園があり敷地内に大きな真っ白な慰霊碑と銅像が建っている。しかし、きちんと管理されていないため銘板がなくなっているうえ、落書き状態で薄汚れている。真っ白な慰霊碑だけに落書きがいっそう目立つ。
 首都ホニアラ郊外のスカイライン・リッジには米軍慰霊碑もあるが、こちらはしっかり管理されている。塀と門があり、入口では訪問者の記帳と入園料徴収が行われている。星条旗とソロモン諸島旗が翻る静粛な空間である。薄汚れた日本軍慰霊碑とは対照的だ。
 厚生労働省によると、日本軍関連の慰霊碑はアジア太平洋各地に一五〇〇ほどあるという。ほとんどが元兵士や遺族が建立したものだが、六〇年の歳月を経て、みな高齢化していることもあり管理できていないのだろう。
 不思議なのは靖国神社の思想との矛盾である。日本軍兵士の「英霊」が靖国に眠っているのなら、外国の地にわざわざ慰霊碑を建てる必要がない。霊は九段に還っているはずだから。一五〇〇もの慰霊碑が現地に建てられたのは、元兵士も遺族も靖国神社など信じていないからではないか。落書きだらけの薄汚れた慰霊碑は現地の人々には「迷惑施設」でしかないだろう。靖国を信じているのなら、今のうちに日本人自ら撤去するべきではないだろうか。

ソロモン人の記憶

 ホニアラ警察署の前には一九八九年に建立された「ヴーザ像」が建っている。ジェイコブ・チャールズ・ヴーザ(一八九二年~一九八四年)は、アメリカ・イギリス・オーストラリア・ニュージーランド連合軍に協力して日本軍と闘った現地部隊の指揮官である。ガダルカナルからブーゲンヴィルに至る戦線を闘いぬいた。
 ヴーザは手に斧を持って身構えながら、北の海を見据えている。日本軍は北からやってきたからである。
 日本軍が占領したことによって戦争に巻き込まれた人々の慰霊碑を、日本人はなぜ建てようとしないのだろうか。アメリカは少なくともヴーザに感謝の念をこめて像を建立した。ヴーザはソロモン諸島でもっとも有名な戦争英雄である。日本人の戦争の記憶からは排除されてきた現地の人々の記憶を知ることは重要だろう。
 日本軍人の回想記だけを読むと、日本軍はあたかも無人島で戦っていたような錯覚にとらわれることがある。日本人慰霊碑しか建てないのも現地の人々をまともな人間扱いしていないからだろう。しかし、当然のことながらガダルカナルには現地の人々が暮らしていた。戦争に巻き込まれた現地の被害者の調査はほとんどなされていない。
 南太平洋大学が出版した『大量死――ソロモン諸島人は第二次大戦を記憶する』には、九人の生存者証言が収録されている。ウィリアム・ベネットとジョージ・マエラはやはり戦争英雄として知られている。
 ベネットは、一九二〇年、サンタイザベル島のキア村生まれ。父親はニュージーランド人で、母親がソロモン人である。ソロモン行政区ドナルド・ケネディ隊第二指揮官として日本軍と戦った。サンジョルジ島のケバンガや、当時の首都ツラギや、セゲでの戦闘に加わった。捕虜となった日本兵が、捕虜になるくらいなら自殺しようとしたのに驚いたという。
 マエラは、一九二四年生まれで、英軍ソロモン守備隊の一員として戦った。日本軍が銃剣で脅して村々から食料を強奪していたこと、ジャングルの消耗戦を戦いぬいて生き延びたことが語られる。太平洋戦線における「日本に対する勝利」の代表格として、ソロモンでは有名だという。
 他方、アルノウ・ングワディリとアイザック・ガフは、ツラギ空爆後に上陸してきた日本軍との戦いを証言している。日本軍とのジャングル戦の記憶だけでなく、英軍ソロモン守備隊に加わったが、イギリス軍はソロモン人を平等に扱わなかったという。それに比べてアメリカ軍は親切で食料や装備をくれた思い出を語っている。
 ソロモン諸島だけではない。キリバスのタラワ島、マキン島、バナバ島、パラオのペリリュー島やアンガウル島など太平洋各地に戦争の記憶がいまなお静かに、しかし、激しく息づいている。現地の死者を悼むことなく、日本兵の死者を美化してきた日本人の偏狭さが恥ずかしい。