週刊金曜日(4)
軍隊のない国家を歩く(4)
インド洋


 インド洋ではモルディヴとモーリシャスに軍隊がない。
 インド南方にあるモルディヴはアジアに属するので、太平洋を除くアジアで唯一の軍隊のない国家である。モルディヴは住民の百%がイスラム教徒であり、イスラム圏で軍隊のない国家である。
 マダガスカル東方にあるモーリシャスはアフリカに属するので、アフリカで唯一の軍隊のない国家である。モーリシャスはインド系住民のほか、クレオール系住民も多いが、一七%はイスラム教である。
 近年、イスラム教を好戦的に描き出す偏見がメディアにあふれているが、イスラム教に戦争やテロとの格別のつながりを認めるのは合理的ではない。キリスト教国家が行ってきた戦争や虐殺がどれほど多いか。儒教や仏教圏の諸国はいずれも軍隊を持っている。

珊瑚の国の環境

 モルディヴは、インド洋の真珠と呼ばれる珊瑚のリゾート地で、日本からの観光客も多い。独立以来、非同盟中立政策を外交の基本方針とし、すべての国との良好な関係維持に努めている。憲法第三三条によると大統領は軍隊最高指揮官とされ、第四二条によると大統領には宣戦講和の権限が与えられている。しかし、実際には軍隊がなく、沿岸警備隊等を有している。常備軍はないが、いざとなれば緊急軍の編成ができるものと思われる。
 日本外務省は、「国家保安隊」を軍隊と位置づけている。主として国内秩序維持及び密漁防止を目的とする国家保安隊で、約一五〇〇人の人員である。モルディヴ国立図書館および国立法務図書館等で資料を調査した際に、職員に質問してみたが異口同音に「軍隊はない」と答えた。国家保安隊は国内向けの組織で警察の範疇であるし、沿岸警備隊はあるが数隻の小さなボートを保有しているにすぎない。
 モルディヴは、二〇〇四年一二月二六日のスマトラ大地震の際、インド洋大津波の被害を受けた。インドネシアやスリランカなどの犠牲者総数は三十万に達した。モルディヴの犠牲者は百人と言われる。首都マーレや、フルレ島などは大きな被害を受けていないが、各地の珊瑚礁で犠牲者が出た。
 二〇〇一年、政府は国連気候変動枠組条約に関する最初の報告書を公表した。それによると、現在の地球温暖化が進み海面が上昇すると、首都マーレは二〇二五年には一五%が水没する。二〇五〇年には一五ないし三一%、二一〇〇年までに五〇ないし一〇〇%水没する。海面が一・五八メートル上昇すればマーレは完没する。報告書にはマーレ水没の予想地図が掲載されている。
 マーレだけではない。リゾート地として観光業の柱となっている珊瑚礁は、海面上昇による環境激変によって珊瑚の全滅、海岸の浸食など多大の変動を被り、観光業の維持は到底見込めない。こうした環境悪化へのアピールと対策を繰り返すことがモルディヴの現代史となっている。太平洋のマーシャル諸島、キリバス、トゥヴァルなども同じ問題を抱えている。「北極の氷河が溶けてもむしろ体積は減るから海面は上昇しない」などと言うニセ科学者がいるが、北極だけではなく南極やグリーンランドなどの氷河も溶けることを無視している。

虹の国の環境

 モーリシャスは、珊瑚の海が広がるリゾート地でもあり、西欧からの観光客も多い。旅行ガイドには「インド洋の貴婦人」と書かれているが、現地で入手した文献には「インド洋の虎」と書いてある。マリーナ・カーター編『虹を固める――独立モーリシャス』の表紙には、サイクロンの襲来から虹の国を守るために扉に板を打ち付ける虎の絵が描かれている。ラジオは「SOS」を叫んでいる。モーリシャスにとって環境保護が重要課題であることが示されている。
 外交方針は、過半数の国民の旧母国であるインド、旧宗主国のイギリス、フランスとの連携を基本としているが、旧西側、旧東側及び非同盟諸国とも良好な関係を維持する全方位外交を展開してきた。南部アフリカ開発共同体、インド洋委員会、東南部アフリカ共同市場、環インド洋地域協力連合等に参加して地域協力を推進している。
 軍隊はない。憲法には、軍事条項も緊急事態条項もない。ただし、日本外務省は、機動隊一五〇〇人、沿岸警備隊五〇〇人を軍隊と呼んでいる。モーリシャス政府庁舎で話した職員のうち、一人はストレートに「軍隊はない」と答えたが、「軍隊はないが・・・」とあいまいな返事をした職員もいた。
 モーリシャスは「虹の国」と呼ばれるように、多民族・多言語・多文化の国家と社会である。このため独立時には混乱と衝突が起きている。第一に、イギリスによる植民地支配はモーリシャスとチャゴス諸島を一括していたが、モーリシャスだけが独立したので、一九六五年にチャゴス諸島住民はモーリシャスに強制移住させられた。第二に、一九六八年の独立時には、クレオール人とイスラム教徒の間で衝突が起きている。しかし、その後はおおむね政治的には安定し、経済的にも順調で、アフリカでも経済発展した国の一つとされる。とはいえ、ポスト・コロニアルの虹の国の統合が常にうまくいくとは限らない。同様の諸国が内紛を抱えて苦労しているので、モーリシャスの統合とアイデンティティの確保に努力を注いでいる。
 モーリシャス大学のヴィクラム・ラムハライによると、モーリシャス文学の最大の特質は、フランス植民地からイギリス統治に変わった時期に、イギリス統治下におけるフランス語文学が成立したことだという。フランス語で書かれたイギリス植民地文学というパラドクシカルな事態である。
 他方、インド系住民は英語を使った。一九世紀末には住民の多くがインド系になったので、二〇世紀にはいると英語文学が成立した。第二次大戦後にはクレオール語文学が登場した。ネグリチュード運動の影響も受けた。何語で書くかによってどのコミュニティに属しているかの判別がつくようになっていった。
 独立後は、植民地の遺産として、モーリシャスのアイデンティティ、文化、言語が成立していないことに気づいた人々はその確立に向けて努力を始めた。ただし、フランス語を用いる人々には、むしろモーリシャスのアイデンティティから自らを切り離す意識も存在した。
 他方で、クレオール語文学が発展し、植民者と植民地人、主人と奴隷という歴史的現実が描き出されていった。クレオール文学は階級意識にも着目した。民族の溝だけではなく、階級の溝も意識されることで、いっそう複雑な現実把握が問題となった。労働者階級は、植民地主義と新植民地主義の被害者として描かれた。さらに、ヒンドゥ語文学や、中国文化の影響を受けたフランス文学が登場する。最近は、民族や言語の溝があることを冷静に認識して、人種的偏見や民族感情を克服する模索を続けている。

軍隊と準軍隊

 軍隊があるか否かの議論は結構難しい。
あるかないか、オール・オア・ナッシングでは収まらない。警察軍と呼ばれる組織もあるし、辞書の定義で足りるわけではない。
 国家主権を対外的に行使する実力装置が軍隊で、対内的に行使する実力装置が警察だが、沿岸警備隊、国境警備隊は境界上にある。軍隊と準軍隊の区別も直ちに明瞭にできるわけではない。機能や、任務・装備を見ても明瞭になるとは限らない。
 太平洋やインド洋の島嶼国家は沿岸警備隊を保有しているが、その主要な任務は、珊瑚礁の保全や貴重動物の保護だったりする。もちろん密輸防止も任務であるし、外敵の侵入に対しては排除活動を行うことになる。モルディヴの国家保安隊は国内治安を任務としているし、沿岸警備隊は密輸防止や環境保護が任務だ。モーリシャスも同様であろう。一つひとつ具体例に即して判断するしかないが、今後の調査課題である。