救援07年03月号

裁判員はどこへ行く(三)

世論と不祥事

 二月一日、内閣府が裁判員制度に関する世論調査(二〇〇六年一二月実施)の結果を発表した。裁判員制度が始まることを「知っている」が八〇・七%、「知らない」が一九・三%。参加したいか否かについては、「参加したい」が五・六%、「参加してもよい」が一五・二%、「あまり参加したくないが、義務であるなら参加せざるをえない」が四四・五%、「義務であっても参加したくない」が三三・六%、「わからない」が一・二%である。「あまり参加したくない」と「義務であっても参加したくない」の合計は七八%である。しかし、「義務であるなら参加」を参加容認と見れば、六七%が参加する方向になるので、法務省は「一定の評価ができる」としている。最高裁の担当者も、参加ムードが低調であることを認めつつも、参加する方向の回答は「高い」とし、制度の具体的な姿を国民に伝える努力をするという。日弁連も「不安に思うのは当たり前」として、学校での模擬裁判などを通じて広めていくという(朝日新聞二月二日)。
 広報に努めるというが、実は不祥事が続発している。第一が「やらせタウンミーティング」である。やらせタウンミーティングは特に教育基本法改正問題の中で話題となったが、実はやらせの多くは司法制度改革のタウンミーティングであった。東京、宇都宮、金沢、高松、宮崎、那覇などでやらせがあった。東京では過半数の発言者がやらせであった。
 第二の不祥事は、最高裁と全国地方新聞社連合会主催の「裁判員制度フォーラム」で、大阪では産経新聞、千葉では千葉日報が、謝礼を払って「動員」していた。大阪、和歌山、千葉など各都市で数回にわたって繰り返されている。大阪では、産経新聞は人材派遣会社を通じて一人当たり五千円を払って七十人を動員。和歌山では一二五人を動員した。千葉日報も三八人を動員した。盛岡では岩手日報、仙台では河北新報、福岡では西日本新聞も動員していた。つまり全国的組織的に行われていた。最高裁と電通が切り盛りして、地方新聞社連合会に協力を要請したフォーラムであり、二〇〇六年度だけで三億四千万円の発注である(朝日新聞一月三〇日など)。動員について最高裁は知らなかったと言訳しているが、疑惑が残るし、知らなかったとしても多額の税金をやらせにつぎ込み、山分けした結果責任は免れない。

止まらない批判

 裁判員制批判は、実施が迫ってきた今も、止まっていない。法案審議過程において批判が強かった法律であっても、いったん国会を通過すれば、もはや実施する以外に選択肢はないから、ほとんどの場合、法案に反対した研究者や弁護士も、制定された法律の解釈・運用をどうするかに関心を集中させるものだ。ところが、裁判員制に関しては、今なお批判が次々と公表されている。
 伊佐千尋(作家)『裁判員制度は刑事裁判を変えるか――陪審制度を求める理由』(現代人文社、二〇〇六年)は、「市民による市民のための司法制度」を求める立場から、「裁判員は、裁判官と対等な立場で議論し判断できるか?」「捜査・公判が現状のままで裁判員制度は機能するか?」を問い、「市民のための司法改革」からほど遠い改革を批判する。「裁判員制度の設計段階で、現状の刑事裁判の問題点を指摘する視点は取り除かれていきました。刑事裁判の病巣には一顧も与えず、被疑者・被告人の人権保障への手立てがほとんどなくなってしまったのは遺憾のきわみとしか言いようがありません」。
 高山俊吉(弁護士)『裁判員制度はいらない』(講談社、二〇〇六年)は、裁判員制徹底批判の書であり、「本書は、裁判員法はこのままではまずいからここを改めようというような修正提案の書ではない。法の施行に真っ向から反対する裁判員法全否定の書である」と宣言する。法律論としては、制定過程における審議の不十分さ、違憲論に代表される根本的疑問に耳を閉ざした強引な採決、官僚統制の強化ばかり目に付くことなどが指摘される。模擬裁判員の経験に立っても、納得できる説明がない、玄人と素人の差、実施強行のための「耐震偽装」を批判する。裁判員制があたかも陪審類似制度であるかのような虚偽の説明がなされていることも的確に批判している。結局、裁判員制によって人権と民主主義が破壊されるという。
 小田中聰樹(東北大学名誉教授)『刑事訴訟法の変動と憲法的思考』(日本評論社、二〇〇六年)に収録された「裁判員制度の批判的考察」は、司法改革のイデオロギー批判(新自由主義的構造改革批判)を前提として、裁判員制の基本的発想とイデオロギーを解剖する。裁判員制の擬似民主性と非独立性、裁判員就任の強制と選別・排除、裁判員関与裁判の強制といった疑問点を指摘する。さらに、公正な裁判を受ける権利との関連で、公判簡略化への疑問、防御権無視や弁護活動規制の問題を摘示する。「欠陥や問題点を抱えるとしても、裁判員制度により司法への国民参加が実現することそれ自体に大きな意義があり、欠陥や問題点は今後改善、改良していけばいい」という意見に対しては「現実的基礎が果たしてあるのだろうか」と疑問を投げかけている。
 伊藤和子(弁護士)『誤判を生まない裁判員制度への課題』(現代人文社、二〇〇六年)は、留学中の調査活動に基づいてアメリカ刑事司法の実情を詳細に報告している。アメリカ司法も死刑冤罪ラッシュによる反省が進められている。ミランダ原則と取調べの可視化、証拠開示の拡充、DNA鑑定問題、公設弁護人制度の問題、公判準備活動の保証、周知徹底される無罪推定の原則など、有益な情報が多数紹介・検討されている。本書の内容はアメリカ陪審実情だが、日本の裁判員制が失敗しないようにとの提言でもある。著者は裁判員制を否定していない。しかし、著者の提言を総体としてみれば、導入が迫っている裁判員制の抜本的見直しが必要となることは明らかであり、本書の実質は始める前からの裁判員制改革でもある。
 司法改革を裁判員制に歪曲して押し込んだ推進派は、批判に耳を貸さず、やらせに訴えてでも法施行を強行しようとしているが、立ち止まって再点検する勇気を持つべきではないだろうか。