救援07年02月号

裁判員はどこへ行く(二)

多様な立場

 出版物でも各種の法律雑誌でも裁判員制度をめぐる議論が増えている。その多くは導入が決まった裁判員制度の実施に向けた実務的な議論である。裁判員選任手続きをどのように具体化するのか。裁判員を説得するための立証や弁論はどのようなものか。裁判長の説示はどのようになすべきか。職業裁判官の事実認定と裁判員の事実認定はどのような関係にあるのか。裁判員による量刑はどのような問題を孕むのか。裁判員の守秘義務はどの範囲まで及ぶのか。裁判員制度導入に向けて、裁判所、検察庁、弁護士会のそれぞれが着々と準備を重ね、研修も行っている。個別の弁護士による論文も、刑事法研究者による問題提起も増えている。それらに対して発言したいことも山のようにあるが、まだまだ裁判員とは何か、何のために導入されたのか、裁判員制度導入によって刑事司法の何がどのように変わるのか根本問題を考えたい。
 裁判員制度導入に至る議論やその目的については、司法制度改革審のウェブサイトなどで多くの資料が公表されているし、国会審議でも議論されたのでそれ自体を改めて検討するつもりはない。制度導入の可否をめぐる議論を蒸し返すことになるだけだからである(別の形で蒸し返す必要があるが)。裁判員をめぐる議論は、単に賛成と反対とに分かれるのではない。主要な立場だけでも次のように分かれる。
裁判員積極推進論(司法制度改革審など)
裁判員賛成論+陪審論
裁判員反対論+職業裁判官論
裁判員反対論+違憲論
裁判員反対論+陪審論
 このように複雑な配置に分かれている。そのことがもつ意味をまず確認しておきたい。
 第一に、一般論として、単なる賛否の対立ではなく、多様な立場からの実質的な議論が起きたことは積極的に評価できる。しかし、司法制度改革審の議論は、国民の意見を聞くというのは建前だけで、内部の議論で裁判員制度導入を固めていった。事後的な「多様な立場」、つまりアリバイとしての「多様な立場」ではなかったか。

陪審論者の分岐

 多様な立場に分かれた中でも注目されるのが、陪審論者の分岐である。陪審制を求めてきた論者が、裁判員をめぐっては大きく立場を異にした。その理由を見ていくことで、現在の刑事裁判への評価、刑事司法改革への姿勢、そして司法民主化の理解の違いが浮き彫りになると思われる。
 ①第一は、裁判員制度は陪審制度への一里塚という理解である。かつて陪審裁判を考える会事務局長であり、司法制度改革推進本部(内閣府)裁判員制度・刑事検討会委員となった四宮啓(弁護士、早稲田大学法科大学院教授)は、陪審裁判を考える会共同代表の伊佐千尋との対談「裁判員制度は、陪審制の一里塚になるか」(伊佐千尋『裁判員制度は刑事裁判を変えるか』現代人文社、二〇〇六年)において、陪審ではなく裁判員が採用された経過を説明し、「純粋な陪審制度にはならなかったとしても、主権者である市民が主体的、実質的にかかわる仕組みの一つが、今回第一ステップとして実現した」と述べている。委員の中には市民参加に対する反対意見もあった中で、懸命の努力にもかかわらず陪審論は多数を獲得できなかったため、裁判員制度に落ち着いた。
 裁判員制度が市民参加の第一ステップであるならば、陪審論者がこれに賛成するのは正当である。しかし、これは四宮の主観的願望にとどまる。なぜなら、司法制度改革審以後の議論のどこにも第二ステップは示されていない。裁判員法に「三年後の見直し」が示されているが、三年で裁判員から陪審への移行という議論が出てくるとは思われない。それならば最初の三年の無駄な努力は何なのかという話になってしまう。そして、同じく委員であった池田修(東京高裁判事)による注釈書『解説裁判員法』(弘文堂、二〇〇五年)では、「この制度を陪審型の制度へ移行する前段階ととらえるようなことはできない」と断定されている。
 他方、やはり熱烈な陪審論者である丸田隆(関西学院大学法科大学院教授)は、三年後の見直しにおいて「裁判員制度を限りなく陪審制度に近づける」ことを提言している。徹底した直接主義、口頭主義、裁判官の参加しない評議、全員一致制などである(丸田隆『裁判員制度』平凡社、二〇〇四年)。とはいえ否定された陪審論議を盛り返す具体的方策は示されていない。
 ②もう一つの裁判員賛成論は、裁判員によって従来の「絶望的な刑事裁判に変化がもたらされる」という期待である。陪審論者にとっては、司法の民主化と刑事司法改革とは密接不可分の論点である。四宮啓は次のように述べている。「今度の司法制度改革について、私が全体的に見て評価している点は、全部がセットになっていることなんです。つまり刑事手続改革なら刑事手続改革だけで議論しましょう、市民参加は市民参加だけで議論しましょう、あるいは法律家の養成制度は養成制度だけでやりましょう、とばらばらに議論しているのではなく、全部がガラス細工のように密接に結びついて、これも批判がありますが、この国の社会のあり方を変えようという発想でできている」。
 高野隆(弁護士、早稲田大学法科大学院教授)も、「裁判員制度を支持する一番大きな理由は、いまの裁判があまりにもひどい」、「冤罪製造マシン」であるからとして、裁判員制度になれば、弁護人が裁判員に訴えるチャンスがある。職業裁判官こそメディアの影響を受けること、公判前整理手続きには疑問点もあるが、証拠開示を認めたことは前進であるとして、刑事司法改革の前進に向けた努力を強調する。端的に「裁判員は官僚司法を変える」という(高野隆「事実認定は市民に任せた方が良い」『月刊マスコミ市民』四五五号、二〇〇六年)。
 刑事司法改革を推進するためにも裁判員制度を一定程度評価して、制度の運用の中から次の改革を引き出していこうとする前向きな姿勢は当然のことながら評価できる。
 問題は、第一に、裁判員制度によって刑事司法改革が前進するという評価が可能なのか。第二に、裁判員制度導入の弊害はないのか、その弊害は刑事司法改革に悪影響をもたらさないのかである。四宮のガラス細工は自ら崩れ落ちるのではないか。