非国民がやってきた!(11)

井上伝蔵(1)

 秩父事件の井上伝蔵は、いわば非国民第1号です。
秩父事件はとても有名ですが、スローガンの一つは「圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ」です。明治初中期の段階で、秩父の農民たちが政府を非難して、「圧制を変えて自由の世界を作る」と立ち上がったのです。
事件は1884年に起きました。日本各地で自由党が作られていました。板垣退助に代表される自由党ですが、最左派グループが秩父や武相(武州、相州)などで困民党を作っています。秩父困民党、武相困民党などで、最も貧しく苦しんでいた農民の闘いです。
政府に対して色々な要求を掲げています。例えば『秩父困民党の要求4項目』を見ると次のようなものです。
1 高利貸のため身代を傾け生計に苦しむ者多し、よって債主に迫り10年据置40年年賦に延期を乞うこと。
2 学校費を省くため、3カ年休校を県庁に迫ること。
3 雑収税の減少を内務省に迫ること。
4 村費の減少を村に迫ること。
 借金や税金のせいで食べていけないために農民たちが立ち上がったわけです。学校休校というのは、当時学校制度が始まって子どもを学校に行かせなくてはいけない。子どもは農作業を手伝っていたわけです。子どもが学校へ行ったら人手が足りないし、しかも学費がかかるわけですから、農民の生活を直撃したのです。
予定では11月1日に武装蜂起のはずでしたが、実際には1日早く10月31日の永保社襲撃から始まって、11月1日に椋神社に3千名が集結しています。武装して、軍隊をつくります。単なる農民一揆ではなくて、軍隊をつくって政府と戦うという、日本近代史上まれに見る動きです。最初は3千名ですが、支持が広がり7千、あるいは1万名といわれる人々が結集しています。正確な数はわかりません。
11月1日に高利貸を襲撃しています。各地の村々を転々として、高利貸の所に押しかける。悪質な高利貸の家を壊して借用書を破ったり、燃やしたりして、農民の借金を帳消しにしていきます。村々の庄屋の所に行って「金を出せ」と。「革命を起こす。武器を買うのに必要なので、金を出せ」ということで、資金を集めていく。そして秩父の中心であった大宮郷(現・秩父市)へ攻め込んで行きます。
 行ってみると警察官も逃げてしまって誰もいないので平穏に占拠します。郡役所を占拠して革命本部とします。全国各地で色んな動きがあったので、秩父から各地に協力要請の連絡を取ります。群馬、長野、神奈川など各地に連絡を取ります。その時に使った言葉で最も有名なのが「おそれながら天朝様にたてつくぞ」です。天皇制国家そのものにたてつくということを主張しながら戦っていたのです。前代未聞、空前絶後といってもいい運動を生み出しました。
 困民党総理の田代栄助たちは、秩父郡を占拠した後、東京に出る、帝都に侵入するぞと、真っ向から戦争することまで決めていました。首都決戦です。そうは言っても、農民が寄り集まった急ごしらえの部隊ですから、本当の日本軍と戦うと勝負になりません。
<文献>
井上幸治『秩父事件』(中公新書、1968年)
秩父事件研究顕彰協議会編『秩父事件』(新日本出版社、2004年)

非国民がやってきた!(12)

井上伝蔵(2)

農民たちが軍隊をつくって日本政府と戦争をするという驚くべき事件ですが、その背景の1つには明治維新の改革期の政治的社会的混乱があったこと、明治国家が近代国家体制を確立するために新しい政策をとったことがあります。
 1867年に大政奉還、68年に明治維新、71年に廃藩置県、72年に学制、73年に徴兵令と地租改正条例、82年に軍人勅論、そして89年に大日本国憲法公布と続きます。この間に、地方自治の制度を整え、学校制度と軍隊を整えて、大日本帝国憲法を制定します。
そういう時期、農民は苦況に陥っていきます。各地でさまざまな抵抗があって次々と事件が起きます。地租改正と不況で生活困難になる。
自由民権運動の中で、あちこちで農民一揆なども起きます。1866年の武州世直し一揆、75年の愛国者党の結成、76年の不平士族の反乱や伊勢暴動、82年の喜多方事件、83年の高田事件、84年の群馬事件、加波山事件、名古屋事件、飯田事件と、各地で不平不満を訴える運動が起きます。すべて警察によって鎮圧されました。ところが秩父事件だけは軍隊をつくってしまったので、軍隊と軍隊の戦いになっていきます。 
もう1つの背景として、明治政府としては条約改正をして国際社会にデビューをして「文明国家」の道を歩まなければならない。そのためにも内部を固めて、さらに豊かな国をつくらなければならない。文明開化だけでなく殖産興業もして、立派な国を作ろうとやっていたわけです。蝦夷を北海道として日本に取り入れる。1879年には琉球王国をつぶして日本に組み入れる。さらに朝鮮半島に出て行くという形で、75年の江華島事件から94年の日清戦争を経て、のちに1910年に韓国を日本に併合するわけです。北海道、沖縄、台湾、朝鮮、これを「日本」にするわけです。そういう形で「強い国」を作ろうと日本政府は努力をしていたわけです。近代日本国家は内部で収奪して、外部に膨張して進出していきます。これに対して貧しい農民の抵抗運動が湧き起こります。
何度かあちこちで戦いをすることになります。11月5日の粥新田峠の戦いとか、色んな所で交戦します。その中で何人も死んでいますし、政府軍も死者を出します。 困民党軍のほとんどは貧しい農民たちですが、中心部にいた人たちは農民というよりは地主、庄屋です。総理になった田代栄助、あるいは会計長の井上伝蔵という人たちは地元のお金持ちです。自分の所にいる農民たちが貧しくて困ったといって訴えてきます。彼らを率いて、困っている農民の要求をなんとかお役所に通そうと努力したのですが、いくら交渉しようとしても駄目だったので、やむを得ず立ち上がったのです。
 軍隊なので軍律をつくっています。『五ヶ条の軍律』というものです。
第1条 私ニ金円ヲ掠奪スル者ハ斬。
第2条 女色ヲ犯ス者ハ斬。
第3条 酒宴ヲ為シタシタル者ハ斬。
第4条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬。
第5条 指揮官ノ命令ニ違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬。
 という事で、きちんと規律ある組織として行動しようとします。途中まではかなり守られていますが、途中から混乱して逃げ惑う中で、このルールは少し破られていく事になります。

非国民がやってきた!(13)

井上伝蔵(3)

蜂起した困民党は、大宮郷からいったん西に向かうのですが、そこを追撃されてバラバラになります。11月5日に再編成して困民党として戦いますが、また敗れる。何度も何度も戦いながら敗れて逃げていくわけです。群馬県から十国峠を越えて長野県に逃げていきます。南佐久郡の戦いで困民党はとうとう壊滅します。首謀者はほとんど死んでいるか、逮捕されています。
裁判では総理の田代栄助、そして副総理の加藤織平、彼らを始めとして7名が死刑です。多数が懲役刑になります。かなりの部分、20名以上が獄中で死んでいます。拷問されたり虐待されたりして、死刑ではないけれど、実際には沢山獄死しています。
 ところが、会計長の井上伝蔵は捕まらずに逃げます。欠席裁判で死刑判決を受けています。他に菊池寛平や飯塚森蔵らも欠席裁判で死刑となっていますが、この2人はのちに捕まっています。伝蔵だけは捕まらずに逃げ通しました。
 伝蔵以外の主要な人々を見ておきましょう。
 困民党総理となった田代栄助は大宮郷・熊木という所に生まれました。名主の家柄で、事件当時は51歳で養蚕を手がけるかたわら代言人、つまり弁護士をしていました。 他の主要なメンバーは30歳前後、20歳とか30歳という人が多いのですが、その若者たちに頼まれて、最初は断っていたのですが断りきれずに、困っている農民や必死で頑張っている若者のために、自分が総理として立ち上がることにしました。計画としては、秩父を全部押さえた後、県庁に出て行き、さらに実権を握り政府をつくる、つまり明治政府を倒して民主的な政府を作るということを考えていました。それをはっきり考えていた人です。
 次に副総理の加藤織平ですが、石間村の農家に生まれて、36歳です。やはり大宮郷で占領した時に指揮をとり、先頭にたちました。
 さらに柴岡熊吉は、大宮郷の出身で、46歳。会計長兼大宮郷小隊長です。田代栄助の家に同居していたので、当然のごとく参加しました。
 さらに新井周三郎は、男衾郡西ノ入村の豪農の家に生まれて、学校教員として学校に勤務していました。自分は借金はない、困っていたわけではないけれど、人が困っているのを黙って見ていることはできない、という事で戦って重傷を負いました。
 それから飯塚森蔵。井上伝蔵と並ぶ人物ですが、下吉田村の出身で地元の有名な貴布祢神社の神官田中千弥から学問を学んだということです。田中千弥は事件に関わってないのですが、見聞を色々記録に残した人物です。飯塚森蔵も学校の教員をやっていましたけれど、新井周三郎と同様に秩父事件に参加しました。
若い農民たち、もっとも貧しい農民たちが中心で7000人とも1万人ともいう軍勢の戦いをしていますが、首謀者たち、リーダーたちは、豪農とか弁護士とか学校教師、そういう人たちがやっていた。つまり当時の知識人が闘いの中心にいたのです。

非国民がやってきた!(14)

井上伝蔵(4)

 従来、秩父事件は男たちの物語として語り継がれてきました。戦う男たちばかりが注目を集めてきました。登場人物に女性もいるのですが、女性はおまけの扱いでした。
実際には秩父事件には沢山の女たちが関わっています。当然、それぞれの戦いを支える家族がいます。例えば井上伝蔵であれば、一家からは、一族からは伝蔵だけがこの事件に参加しています。家族に「行かなければならないから、見送ってくれ」とか、「他の者は残ってくれ」という形で、姉妹や妻が家を守るという形になっています。他の多くの参加者たちもそうです。大抵一つの家から一人出て行く。命がけの戦いですから、代表して一人です。家を潰しては困るから他は残る。そこを女性たちが支えるという形になっています。家父長制的な面もありますが、それだけで語ることはできません。
それから一人、この戦いの中で亡くなった女性がいます。長野の戦いの中で、赤ん坊を抱えて逃げていく、その時に流れ弾に当たって死んだ井上ジョウという女性がいます。そうきちという人の妻だそうですが、ジョウが秩父事件の女性戦死と記録に残っています。
 また、逮捕された女性が3名います。上日野沢村の新井チヨ、黒沢ウラ、上日野村の小粕ダイという3人の女性たちが逮捕されています。警察で取調べを受けて、そこで自分たちの主張を唱えています。例えば尋問されて、「困民党は悪くない」などと言っているけれど、暴力を振るっているではないかというのに対して「その通りです」と堂々と答えています。ここでは「暴力とは何か」が鋭く問われています。非常に強く事件に関わって支えた女性たちです。
 新井チヨは19歳という若い女性ですが、困民党幹部たちと同じ考えで事件に参加していました。そういう若い女性が政治思想を持って戦っていたことが記録に残っています。
 さて、井上伝蔵は1854年に下吉田村の井上家の長男に生まれていますが、一族の総領は井上伝蔵という名前を名乗ることになっていました。第6代目です。農家ですが大変な土地を持っている富農で「丸井の旦那」と呼ばれていたそうです。
役所の仕事もしています。明治政府に楯ついて戦争を起こしたわけですが、それ以前は役所の仕事もしていた人です。地域の有力人物なので、政府の仕事もしていた。しかし、政府がおかしいと考えて、途中で自由党に入党して政府の仕事をやめます。そして役所に交渉する先頭に立っていた人です。
伝蔵は、戦闘に敗れて武甲山に逃げて山の中をさまよい、いったん下吉田村の自宅に帰ります。早朝、近所の斉藤新左衛門ところへ行きます。これ以上逃げられないので自首して出ようと思って新左衛門の所に行くのですが、新左衛門が隠すわけです。伝蔵を土蔵に隠します。捕まらないように。2年もの間、土蔵に隠れて一人で過ごします。しかし、ずっと探索が続きます。
明治政府は、秩父事件関係者は全員一人残らず捕まえる。伝蔵は、すでに欠席裁判で死刑判決が出ています。どこかに必ずいるはずだから捕まえなくてはいけないという状況なので、いつまでも土蔵に隠れてはいられないので、1884年に宇都宮を経て仙台へ行きます。さらに87年に北海道に逃れます。
<文献>
五十嵐暁子他『女たちの秩父事件』(新人物従来社、1984年)
保高みさ子『秩父事件の女たち』(講談社、1987年)

非国民がやってきた!(15)

井上伝蔵(5)

北海道に渡った伝蔵は、苫小牧、札幌を経て石狩町(現・石狩市)にたどりつきます。
石狩町で伊藤房次郎と名乗って農業を始めます。1892年には高浜ミキと結婚し、3男3女をもうけています。男の子が一人早死にしていますが、他の5人は成人しています。農業以外に代書業を営んでいます。人のために書類を書く仕事です。まだ字の読み書きができない人が沢山いた時代です。地元の俳句結社に入って文化人として、石狩町の文化人として、伊藤房次郎として生きます。
ところが1905年に代書業取締規則ができて、許可制になります。許可制になると、届出をしなくてはなりません。届出には戸籍が必要です。しかし伊藤房次郎の戸籍はありません。本名を名乗ることはできないので、代書業をやめて文房具商になり、文房具や教科書を販売します。その後、札幌に移って宿屋を経営したけれども、失敗して儲からなかったようです。
翌年、野付牛(現・北見市)に移住します。北海道の東北部で、道具屋を経営します。ところが1918年、肝臓病が悪化して発作を起こして倒れます。札幌の病院に入院して、手術を受けます。いよいよもう長くないと医者から告げられます。その時に伊藤房次郎は妻ミキに、長男を呼べと言います。すでに働いていた長男が北見からやってきます。そして病院で3日間、自分の人生を妻と長男に語ります。実は伊藤房次郎というのは嘘で、自分は秩父事件の困民党会計長、死刑判決を受けている井上伝蔵である、と。ミキは慌てて秩父に連絡を取ります。そして井上家から弟が北海道にやってきます。井上家は、伝蔵が死刑判決を受けているので、弟の大作が家を継いでいました。そこへ伝蔵が北海道で生きているという報せが入ったのです。急いで北海道に出かけます。ところが1日間に合わずに会えませんでした。ミキは、もう夫が長くないので、最後の写真を写しています。一家で映っている写真です。伝蔵が横になっていて、まわりに家族が揃っている写真です。当時写真というのは自宅にありませんから、写真屋を自宅に招くわけです。写真を撮るのは大変なことだったのです。撮影から10時間後、6月23日の早朝に伝蔵は亡くなりました。翌日、弟が秩父から北見に到着しました。
 その後いろいろな革命運動、例えばアナーキストとか共産主義者とか色んな人が革命運動を起こしていますが、そういう中で例えば暗殺事件とか爆弾事件とか、反政府運動というのはその時その時で色々起きています。しかし、反政府運動といっても本当に政府と戦う、軍隊をつくって日本軍と戦うという事件は、秩父事件だけです。暗殺とかクーデターとか色んな事件は起こります。あるいは60年安保闘争のような大衆闘争もありました。けれども、政府にたてつき戦争に突入したという空前絶後の秩父事件、その中心人物で、最後まで逃げたのが井上伝蔵です。
 伝蔵は、秩父事件はまさに政治的事件として後に残すべきだということで最後3日間かかってなんとか記録を残して亡くなりました。それが『釧路新聞』を始めいくつもの新聞に報道され、その人生が語り継がれたのです。
<文献>
新井佐次郎『秩父困民軍会計長井上伝蔵』(新人物従来社、1981年)