非国民がやって来た!(16)
金子文子・朴烈(1)
谷あひの早瀬流るる水の如く
砕けて砕く反逆者かな
叛逆の心は堅くあざみぐさ
いや繁れかし大和島根に
金子文子と朴烈は、大逆事件で有罪とされ、死刑を言い渡されました。
大逆事件とは、60年以上前の刑法73条で、天皇制に楯突く行為を処罰していました。天皇を殺そうとしたとか、天皇を殺そうと思って何かした。何もしていなくても準備すれば大逆罪。刑罰は死刑です。実際に殺した事件はありません。
裁判では、朴烈が爆弾入手計画を持っていて、人に爆弾入手を頼んだことが「事件」の中身とされています。何のためかというと天皇の息子の皇太子(後の昭和天皇)を殺そうと思った。そのために爆弾を手に入れようと考えた。東京では難しいので中国や朝鮮の知人に連絡を取って爆弾入手を頼んだことになっています。
最初に頼んだ相手は別の事件で捕まってしまったので駄目でした。次の相手はあまり信用できないので依頼を取り消したため、結局何もしていません。皇太子に爆弾をと考えて、爆弾を手に入れたいと思った。これが「事件」のすべてです。実は本当に頼んだかどうかもはっきりしません。
事件が発覚したのは関東大震災の時です。震災の最中に2人は逮捕されます。1923年9月1日に関東大震災が起きました。膨大な被害が起き、人々が亡くなりましたが、この時、「朝鮮人が井戸に毒を投げた」――憲兵隊や警察がこういうデマを流しました。地震のどさくさにまぎれて噂が広まり、興奮した日本人が次から次と朝鮮人を殺します。約6000人の朝鮮人が殺されました。関東大震災朝鮮人虐殺です。どさくさに紛れて東京の憲兵隊は大杉栄と伊藤野枝を殺します。金子文子と朴烈は「保護」という名目で拘束されました。2人だけではなく仲間の不逞社グループのメンバーたちも沢山捕まります。理由はありません。地震のため混乱しているなか、こいつ等捕まえて放り込んどけという形で捕まえます。
捕まえてから色々調べたところ「実は朴烈が爆弾を手に入れようとしていた」。そういう話がでてきます。それで皆を追及していくと「実際に人に頼んでいた」という話になります。朴烈と金子文子を追及したところ「その通り」。文子は実際には何もしていません。何もしていないけれども、自分が天皇制に反対というのは間違いない。夫である烈が天皇制に反対し、皇太子を殺そうと思って爆弾を手に入れようとしていた。だったら自分も夫と同じ考えです、というのが文子の態度です。そこで夫婦でやったということになり、大逆罪で起訴され、裁判が行われて夫婦2人が大逆罪で死刑判決を受けることになります。後に無期懲役に変わりますが、これが関東大震災時の大逆事件です。
文子は「谷あひの――」と詠んで自ら「反逆者」という言葉を使っています。「叛逆の――」は後に獄中で作った短歌です。天皇制との思想の闘いを敢行する自覚と宣言です。
<参考文献>
山田昭次『金子文子』(影書房、1996)
非国民がやってきた!(17)
金子文子・朴烈(2)
早口と情に激する我が性は
父より我へのかなしき遺産
朝鮮の叔母の許での思い出に
ふとそそらるる名への憧れ
上野山さんまへ橋に依り縋り
夕刊売りし時もありしが
居睡りつ居睡りつ尚鈴振りし
五年前の我が心かなし
金子文子については多くの本が出ていますが、一番便利で詳しいのが山田昭次『金子文子』です。文子の半生の自伝として『何が私をかうさせたか』も大変有名です。出版社を変えて何度も出版されています。鈴木裕子『金子文子――わたしはわたし自身を生きる』や、瀬戸内晴美『余白の春』というドキュメンタリー小説もあります。
文子の性格や人柄、また生活に触れた本人の短歌を見てみましょう。「早口と――」と詠っているように、興奮して喋り出すと止まらない人だったそうですが、これは父親譲りということです。それから「朝鮮の――」は、若い時に朝鮮の伯母のところで育てられていたので、その時の思いを詠っています。「名」というのは一族の名前のことです。つまり名家の生まれに憧れたというものです。3つ目の「上野山――」は学費を稼ぐために新聞を売っていた経験です。当時は新聞を家に配達する制度ではなく、路上で売っていた訳です。新聞や石鹸を売って学費を稼いでいた時の辛かった思いを詠っています。「居睡りつ――」もそうです。夕方に石鹸などを売る時に鈴を鳴らしてお客さんに声をかける。他にも仕事をして、暮らしは大変という中で、なおかつ石鹸売りをやっているので、眠くてつい居眠りをしていたという歌です。
文子の幼い頃については、本人の『何が私をかうさせたか』に詳しく書かれています。
1903年1月25日に横浜市に生まれています。父は佐伯文一、当時横浜市寿署の巡査でした。母は金子きくの(戸籍上は「きり」)で、山梨県出身です。父親の佐伯文一ですが、佐伯家は歴史のある由緒正しい家だったそうで、それが自慢でした。ところが本人は真面目に働かない。警察官も後に辞めてしまいますが、真面目に働かないのでどんどん貧乏になって苦労する。とてもいい加減な性格で、金子きくのと結婚したのに戸籍は入れません。なぜかと言うと、佐伯家は名家である、金子家は貧乏人の家である、だから結婚して一緒に暮らして子どもを3人つくっても戸籍に入れない。名家などと自慢して歩いていますが、全然働かないから暮らしていけない。貧しい。後に娘を売り飛ばそうとします。文子は、こういう困った父親のもとで育ちます。
後に両親が別れると、母親は他の男と暮らします。母親は自分ひとりで生きていける女性ではありませんでした。1908年から母親は中村とか、小林とかと同棲を繰り返しますが、運の悪い人で、付き合った男は皆ぐうたら。まじめに働かない。そのためにとても苦労します。1910年、韓国併合の年に、母親の実家、山梨県丹波に移りますが、この時には小林の実家の物置に住むという状態になっています。そして、弟や妹は人に貰われて行ったので離ればなれになります。
<参考文献>
金子文子『何が私をかうさせたか』(黒色戦線社、1972年)
金子ふみ子『何が私をこうさせたか』(春秋社、1931年/2005年)
非国民がやってきた!(18)
金子文子・朴烈(3)
1911年、母親が塩山の雑貨商と結婚します。子どもは連れて行けないということで、金子文子は父親からも母親からも捨てられた子どもとなります。しかも戸籍がない。「無籍者」とされます。両親に捨てられ、戸籍に入っていない状況でした。1912年に、祖父の娘という嘘の戸籍を作って初めて戸籍に入る。それまで学校に行きたくても行けない。戸籍がないので通わせてもらえない。無理やり頼んでいれてもらっても、勉強はとてもできたのに終了証も貰えません。学校の先生にも差別される状態で、ずっといじめられて育ちます。暗い子ども時代を過ごします。ところが朝鮮に親戚がいてお金持ちだということで、1912年10月、朝鮮忠清北道の親戚の元へ引き取られて行きます。
跡取りという名目で連れて行かれたのに、実際は女中としてただ働きさせられます。小学校に入れてもらえて1917年に高等小学校を卒業しています。最悪の環境であったにもかかわらず、なぜか非常に勉強ができました。尋常小学校と高等小学校の記録を見ると、国語とか算数等の学科科目は全部トップクラスの素晴らしい成績を残しています。とても優秀な子どもでした。ただ、実技科目は苦手でした。
そういう中、1919年に「3・1運動」が起こります。韓国は1910年に日本に併合されていた訳ですが、朝鮮人が日本からの独立を訴えて抵抗運動を起こしたのです。これを見た文子は他人のこととは思えない程感動しました。自分は戸籍もない貧乏人で、差別され、いじめられてきた。同様に差別されている朝鮮人が、独立のために立ち上がって闘っている。とても感動したという記録が残っています。その後、山梨の実家で暮らすことになります。ところが、もっと勉強したい、学校の先生になりたいと考えて、1920年に父親に相談するのですが、女なんか勉強する必要はないと相手にしてもらえないので、家を飛び出します。父親とけんかをして、勉強するんだと言って東京に出ます。まだ16歳でした。
東京・上野の新聞店に住み込んで新聞売りをしながら正則英語学校と研数学館に通います。しかし新聞売りではとてもやっていけない。生活をして学費も稼がなくてはならないので、さらに粉石鹸の夜店を出したり、浅草の鈴木家の女中となって働いています。住み込みで、食事は何とか出ますから最低限暮らしてはいける。けれど本人は勉強したい、でも中々勉強できない。苦労しながら頑張ります。
1921年、本郷追分町の印刷屋・社会主義者の堀清俊方に住み込んで働きます。夏には元鐘麟と知り合い、元の紹介で共産主義者の鄭又影、金若水や、無政府主義者の鄭泰成等とつき合う様になります。この頃東京に出て来て、無政府主義や社会主義の思想に立って朝鮮独立運動をしていた人たちと知り合っていきます。有楽町に通称「社会主義おでん」というおでん屋があったそうですが、そこで働きます。1922年2月か3月に朴烈と知り合います。ここまでが10代の文子の生涯ということになります。当時も今も普通では考えられない人生ですが、自分の道を切り拓いていきます。
<参考文献>
鈴木裕子『金子文子――わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、2006年)
瀬戸内晴美『余白の春』(中央公論社、1972年)
非国民がやってきた!(19)
金子文子・朴烈(4)
朴烈は金子文子より一つ年上です。1902年に朝鮮慶尚北道に生まれています。ここも元は名家です。身分は両班(やんばん)です。両班とは当時の朝鮮の地主階級、お金持ちの階級です。歴史的に由緒のある朴家の二男として生まれています。1906年に父親が死んで兄が遺産を相続しますが、この頃から家は傾き始めます。地主でお金持ちだったのが、父親の代で傾いて、暮らしが苦しくなっていきます。1908年に書堂(学校)に通って勉強し始めます。非常に激しい性格の持ち主で、自分でもそう思っていたので「烈」という通称を名乗ります。本名ではなく、激しい性格を自称していたのです。
1909年に準植という名前になったので、本名は朴準植です。一般的には朴烈で通します。1916年に京城高等普通学校師範科に入学します。そして1919年に「3・1運動」が起きた時に、運動に参加して朝鮮独立のビラを配っています。
叔母の家にいた文子は3・1運動を目撃して、朝鮮人が立ち上がったのに感動した訳ですが、その頃朴烈は、朝鮮独立のために政治活動を始めていました。ところが日本支配下なので、朝鮮独立のビラを配ると身辺が危ない。朝鮮半島では取締りが厳しいので、これ以上活動ができない、名前が知られてしまったのでまずいと言う訳で、東京に出てきます。
1920年夏に東京にいた朝鮮人留学生とともに「血拳団」を結成して、朝鮮人なのに親日派になっている人たちを攻撃します。やはり1920年に金若水や元鐘麟等と「苦学生同友会」を結成します。同じメンバーで1921年に「黒濤会」をつくります。この頃から社会主義ないし無政府主義になっていく訳です。1921年暮れに杉本貞一に、外国から爆弾を手に入れてくれるよう依頼しています。1922年には、上海臨時政府の崔爀鎮と江戸川公園でこっそり会って爆弾入手計画の相談をしいたといいます。
文子は差別されてきました。社会主義者に出会っても、調子のいいことを言っているけれども、どうも偽物だ。人間が信用できない。そういう中で朴烈にだけは惹かれました。烈は誠に生きている、懸命に生きている人間だということで、烈にプロポーズしています。烈からではなく、文子からプロポーズします。「あなたは女性差別をしませんね」、「私と同士として一緒に暮らしてくれますか」。朝鮮人が差別されている、自分は日本人だけれども、こういう人生を生きてきた。あなたは女性を差別しないか。私は朝鮮人を差別しない。同士として一緒に頑張って行きましょう、と。この時、文子は何人分もの人生を一気に飛び越えたのでしょう。
1922年4月、世田谷区池尻で同棲します。黒濤会で活動し、機関誌『黒濤』を発行します。ちょうどこの時、新潟県中津川で朝鮮人虐殺が起きます。烈はすぐに中津川へ行って調べます。どういう状況で朝鮮人が殺されて、捨てられたのか調べて来て、東京で演説会をやります。朝鮮基督教青年会館で「新潟県朝鮮人労働者虐殺事件調査会」を開きます。これは日本政府にとっては都合が悪いので中止させられます。日本人が朝鮮人を殺した虐殺事件を公表してはいけないということです。9月にはソウルに行って報告します。その際、色んな人たちと連絡を取りながら、「北星会」とか「黒友会」をつくります。11月にソウルで人に爆弾を手に入れてくれと頼みます。何度か爆弾の話が出てきますが、一度も手にしたことはありません。爆弾が欲しいねと話をしていただけです。
<参考文献>
布施辰治他『運命の勝利者朴烈』(世紀書房、1946年[黒色戦線社、1987年])
非国民がやってきた!(20)
金子文子・朴烈(5)
ブルジョアの庭につつじの咲いて居り
プロレタリアの血の色をして
口吟む調べなつかし革命歌
彼の日の希い淡く漂ふ
1922年11月、「朝鮮労働同盟会」を創立し、夫婦で『太い鮮人』という雑誌を発行します。これは後々有名になった雑誌です。まず朝鮮の「朝」の字を抜いて「鮮人」という言葉を使っています。これは差別的に用いられた表現で、朝鮮人を貶めるための言葉です。その上に「不逞」という言葉を付けます。「不逞鮮人」は当時良く使われていた差別表現です。「だったら俺たちは太い鮮人だ」というのが烈と文子が考えた雑誌のタイトル『太い鮮人』です。
1923年、ソウルでは義烈団の金相玉や仲間が逮捕されます。このために烈が頼んでいた爆弾事件は消えてなくなります。烈の思いつきは、思いつきのまま終わってしまったのです。
『太い鮮人』が出版禁止になったので『現社会』という雑誌を発行します。さらに1923年に「不逞社」をつくります。その頃にまた、金重漢と爆弾入手の相談をして、5月20日に上海に行って爆弾を手に入れてくれと頼んだのですが、6月20日にこれを取り消しています。理由は、金重漢が口が軽くて、ひょいひょい喋ってしまう。これではとても駄目だという訳です。この間、不逞社に集まって色々勉強会等をやってるわけですが、9月1日に関東大震災が起き、9月3日に烈と文子は「保護検束」されます。
10月20日、検事局が不逞社員16名を治安警察法違反容疑で起訴します。同日、大阪朝日新聞号外に「震災の混乱に乗じ、帝都で大官の暗殺を企てた不逞鮮人の秘密結社大検挙」と報道されます。10月20日は、6000人の朝鮮人を殺した大虐殺事件が報道された日です。同じ日に、朝鮮人の朴烈が皇太子暗殺計画を持っていたと発表するわけです。
日本人が朝鮮人6000人を虐殺してしまった。日本政府としては、国際社会に顔向けできません。まずいので秘密にしていました。公表させない。とはいえ、いつまでも秘密にはできないので、10月20日に発表した訳です。しかし、それだと日本人が一方的に朝鮮人を虐殺したことになる。それではまずいので、朝鮮人が皇太子を暗殺しようとしていたというニュースを発表します。同じ日の新聞に、この2つが載ります。朝鮮人大虐殺を、そんなのは大したことではないとして、朴烈をでっちあげる。
ところが妻は日本人の金子文子だったのです。
「ブルジョア――」「口吟む――」の歌は、社会主義ないし無政府主義の革命の考え方が出発点で、すべての人間の平等というのが、文子の考え方です。だから烈とともに生きます。
烈が皇太子の暗殺計画を持っていた、やっぱり朝鮮人だ、とんでもないという大宣伝をしようとする。ところが文子は日本人ですから、困ります。日本政府検事局は困る訳です。何としてでも文子を事件から切り離そうとします。
非国民がやってきた!(21)
金子文子・朴烈(6)
真白なる朝鮮服を身に着けて
醜き心をみつむる淋しさ
1924年4月24日、文子は、一緒にやりましたと供述します。皇族と政治の実権者に対し爆弾を投げつけるために、朴烈と相談の上、爆弾入手を依頼したことがあった。そういう風に文子は供述します。烈も、その通り、これは不逞社とは関係がない、自分と文子の夫婦で考えた事件であると喋ります。2月15日になって、2人は「爆発物取締罰則」違反容疑で起訴されて、他の不逞社メンバー16人は不起訴に終わります。当局は16人全員でやったことにしようとしたのを、烈と文子が、2人でやりました、他の人たちはやっていません、関係ありません、ということで他の人たちを助ける。自分たちだけが犯人だと頑張る訳です。
ところが日本政府は、それでは困る。文子が犯人では困る訳です。文子に考えを変える様に何度も説得します。1925年5月4日、立松懐清判事が、それだと刑法73条の大逆罪になってしまう。それでは困るから、文子は違うんだ、供述を改めなさい、転向しなさい、申し訳なかったと一言言えば助けてやるから、と説得します。しかし、文子はそれには答えない。自分は烈と同じ考えです、烈が皇太子を殺そうとして、爆弾を手に入れようとした。だったら自分も一緒です。これを絶対に改めない。文子は何もしていないのですが、自分は烈と同じであると転向を拒否したために起訴されます。
7月17日、大逆罪容疑で起訴されて、1926年、裁判が始まります。
「真白なる――」の歌は多様に解釈できます。1つは、烈の妻として、真っ白な朝鮮服を身につけて法廷に立っているけれども、自分はそれにふさわしくない、心がまだ醜いという解釈です。もう1つは、そうではない、自分たちは朝鮮民族解放のために、差別に抗議して闘っている。それなのに、押しつぶそうとする日本人。その日本人の醜い心を見ているのが淋しい。そういう意味で解釈することもできます。
3月23日、文子と烈は、婚姻届を出して「正式」に夫婦になります。2日後に大審院(当時の最高裁判所)で死刑判決がでます。大逆罪は、天皇やその一族を殺したら死刑、殺そうとして何かしたら死刑。死刑以外にないという条文でした。文子と烈は、皇太子を殺そうと思って爆弾を手に入れようとして人に頼んだ、手には入らなかったけれど、人に頼んだ。だから大逆罪で死刑です。
ただ、いくらなんでも、人に頼んだだけで、それ以上何もしていないので、本当に死刑にはできないということで、4月5日に恩赦によって無期懲役に減刑になります。文子はこの恩赦を拒否しますが、政府としては恩赦ということです。烈は千葉刑務所に移され、文子は宇都宮刑務所栃木支所に移されます。現在の栃木女子刑務所です。そして1930年7月23日、文子は宇都宮刑務所栃木支所で首を吊って自殺したことになっています。23歳でした。遺骨は刑務所の共同墓地に埋められますが、布施辰治(弁護士)等が夜中に掘り出して遺骨を持ち帰って、11月5日、朝鮮慶尚北道に埋葬します。大逆事件の犯人ですから日本には埋葬できない。墓地に入れることができない。実家も引き取らない。文子の遺骨の行き先はないというので朝鮮慶尚北道に埋葬されました。
<参考文献>
『金子文子・朴烈裁判記録』(黒色戦線社、1991年)
非国民がやってきた!(22)
金子文子・朴烈(7)
我が好きな歌人を若し探しなば
夭くて逝きし石川啄木
迸る心のままに歌ふこそ
真の歌と呼ぶべかりけり
彼らの考え方に少し触れてみましょう。朴烈は、取調べの中で、こういうことを言っています。
「第一に日本の民衆に対しては日本の皇室が如何に日本の民衆の膏血を搾取する権力の看板であり、又日本の民衆の迷信して居る様な神聖なる事神様の様な者では無くて実は其の正体は幽霊の様な者に過ぎない事を、即ち日本の皇室の真価を知らしめて其の神聖を地に叩き落とす為、第二に朝鮮民衆に対しては同民族が一般に日本の皇室を総べての実権者であると考えて居り、憎悪の的として居るから、此の皇室を倒して朝鮮民衆に革命的独立的情熱を刺激するが為、第三に沈滞して居る様に思わるる日本の社会運動者に対しては革命的気運を促す為めにあったのだ」(『裁判記録』56頁)。
つまり、天皇は神様だなんて言っているけれどもそんなことはない。あれは人間に過ぎない。それを明らかにするために、爆弾で殺してしまえば解るだろうという話です。
しかし、烈は必ずしも天皇・皇太子だけを爆弾投擲対象と考えていたのではありません。
「日本の社会組織を転覆させる為には元老、大臣、官僚、軍閥又は資本家等の政治経済上の実権者を抹殺した方が、天皇、皇太子を殪すより効果があるかも知れぬが、日本の天皇、皇太子を殪すことの有意義なる事は今云った通りであるから、俺は破壊的行為の対象の中に此の両者を重要なるものとして挙げて居たのだ」。
文子は、立松判事から皇太子殺害などという重大事件を本当に起こしたのかと問われて、転向を迫られます。やってませんと言えば、助かる訳です。やったにしても、考え違いでした、すみませんといえば命が助かる。そこで立松判事も何とか文子を助けようとします。被告は何とか反省するわけにはいかぬか、反省しますと一言言えば、命は助かるぞ。ところが、文子はあくまで転向を拒否して反省しません。ずいぶん悩んだけれども反省しないと決める訳です。
「私が過去に於いて又現在に於いて、大逆の名を以て呼ばるべき思想をもって居た、又もって居る。そして其れを実行しようとした事もある。尚、自分のそうした言動に、反省する余地はない、他人に対しては云うまでもなく、自分自身に対してすら」。
文子の頭の中で数々の思念の闘いがあったはずです。
山田昭次『金子文子』によると、「第一に、文子の立論の基礎にすべての人間は自然的存在としては平等であり、自然的存在としての人間の行動は平等であるという考えがあった」。
「地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば全ての人間は完全に平等である」のだから天皇だけが特別であるというのは許せない。
「第二に、不平等は権力によって作られた人為の法律や道徳によって作られた」。
だから法律が間違っていることになります。
「第三に、文子は『地上の平等なる人間生活を蹂躙している権力と云う悪魔の代表者は天皇であり、皇太子であります』と天皇・皇太子を権力の代表者と見た」。
「第四に、文子の反天皇制のもう一つの根拠は天皇制は民衆の生命や自我を剥奪するものであるという点にあった」。
これが文子の思想の到達点です。
非国民がやってきた!(23)
金子文子・朴烈(8)
手足まで不自由なりとも死ぬといふ
只意志あらば死は自由なり
殺しつつなほ責任をのがれんと
もがく姿ぞ惨めなるかな
金子文子は天皇制に屈服はしない。天皇制国家に譲ることはできない。たとえ死刑になっても、転向はしません。
「私は答える――生きるとはただ動く、と云う事ぢゃない。自分の意志で動く、と云う事である。即ち行動は生きる事の全部ではない。そして単に生きると云う事には何の意味も無い。行為があって始めて生きてい居ると云える。従って自分の意志で動いた時、其れがよし肉体の破滅に導こうとそれは生の否定ではない、肯定である――と」。
さらに「私は自主自治――凡ての人が自分の生活の主となって、自分の生活を正しく治める処に、うすうすながら私の好きな社会の幻を描いてみる気にもなるのです」と述べています。
自分の人格や思想を曲げることはできない。自分が選んだ朴烈と一緒の人生を生きる。烈と自分が何度も相談して、つくり上げた人生、これは曲げられない。たとえ殺されても、それは曲げられません、と大審院の法廷で敢然と宣言します。この宣言をした以上、判決は死刑しかありえないことになります。
「我が好きな――」も獄中で詠った歌ですが、文子は獄中から友人に啄木の歌集の差し入れを頼んで、啄木を脇に置きながら、素人なりの歌を一生懸命に作っています。最後まで天皇制国家権力の暴力を告発する歌を詠んでいます。
文子は栃木刑務所で自殺をしたことになっていますが、本当に自殺だったのか真相は解りません。殺された疑いもあります。
文子の反天皇制について、女性史研究者の鈴木裕子は、次のように述べています。
「金子文子ほど明快な言葉と論理で天皇制と直接、対決した女性はいただろうか。いな、日本人はいただろうか。・・・金子文子は、日本の反天皇制思想の峰に立つ思想家といっても過言ではないだろう。そのうえ、彼女の『反天皇制』は思想だけではない。彼女の生き方そのものが『反天皇制』であった。あらゆる権威、権力を否定し、人間の絶対平等を求めた」。
「わたしはわたし自身を生きる」という観点で、鈴木裕子はさらに述べています。
「権力に対して、毅然とたたかう金子文子は、『生活者』の目線で現実をしっかりとみていたのである。朝鮮のおかみさんんの言葉に涙し、『人間の愛』に感動することのできる文子の感性も、すぐれて人間的なものである。/調書でもうかがわれるように、金子文子は、同志を終始一貫かばい通した。それは見事としか言いようがない。/文子の『叛逆』『反天皇制』の思想と実践は、実は人間への愛、やさしさと、生活者の立場にしっかり根ざしていたものとわたくしには思われる。時代をこえて、人間への愛と、権力への叛逆に生き、『わたし自身を生きた』金子文子の生と死は、わたくしたちに勇気を与えてくれるものだ」。
戦後まで生き延びた朴烈は、1945年10月27日、日本と闘った英雄として帰ってきます。多くの朝鮮人が出迎えに行きました。獄中闘争23年を経て帰還した朴烈を迎えた布施辰治は「運命の勝利」を宣言します。「朴烈君の生還は、運命の奇蹟だ。朴烈君の生還は、運命の勝利だ」。朴烈は、在日大韓国居留民団団長などを経て、1949年5月に朝鮮半島に戻ります。1974年1月17日、朝鮮で77歳で亡くなりました。