非国民がやって来た!(24)

鶴彬(1)

  高梁の実りへ戦車と靴の鋲

  屍のゐないニュース映画で勇ましい
 
  出征の門標があってがらんどうの小店

  万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た

  手と足をもいだ丸太にしてかへし

  胎内の動きを知るころ骨がつき


     
 この6句は1937(昭和12)年11月15日、『川柳人』に掲載されたもので、鶴彬の最後の作品と言われるものです。つくったのは他にもあるのですが、雑誌に発表したのはこれが最後です。
「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」と「手と足をもいだ丸太にしてかへし」。鶴彬の最高傑作と言われた反戦川柳です。どちらも農村の若者が徴兵されて戦争に行って、戦地で負傷して日本に帰って来る。そういう形で戦争を批判した川柳として有名なものです。こういう川柳を詠んだが故に、特高警察に捕まって、拷問されて、最期は病気で亡くなった訳です。これを書いた後、間もなく亡くなります。そういう時代の厳しさを伝える作品でもあるわけです。 

 鶴彬の本名は喜多一二(一児)で、1909(明治42)年に石川県で生まれています。父親は竹細工職人だったということですが、翌年に叔父の養子となって、そちらで育てられます。鶴彬が生まれたのは、伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺された年です。あるいは翌年に、いわゆる大逆事件が起きて、後に幸徳秋水等が死刑になった年です。さらに翌年には、石川啄木が死んでいる。明治が終わって、大正デモグラシーに入って行く時期に幼年期を過ごした人物ということになります。

 1921(大正10)年に尋常小学校を、1923年に高等小学校を卒業します。学歴はこれが最後です。非常に賢い少年だったのですが、養父が「勉強なんか必要ない、働け」ということで、学校へは行かせてもらえません。ただ16歳にしてすでに川柳を書いて、川柳誌『影像』にデビューしました。

 1926(大正15・昭和元)年に川柳誌『氷原』、これは当時の革新的な川柳誌の代表の一つですが、そこに登場しています。町工場の労働者として働きながら『氷原』等の雑誌に川柳を発表していた。その中で、森田一二や田中五呂八という有名な川柳人たちの句を読んで目覚める訳です。その結果、1927(昭和2)年に川柳誌『川柳人』という雑誌に「僕らは何を為すべきや」という評論を書いて、川柳だけではなくて、川柳がいかにあるべきかという評論の方でも颯爽と登場します。わずか18歳の時です。

 目覚めて評論を書く前は、次のような句を詠んでいました。



  ショーウインド女の瞳が飛び出した

  暴風と海との恋を見ましたか

  水平線で太陽を立てた日だ

  大切に抱いてゐるから黙って居やう


    
 当時の言葉でいうと自然主義とか、あるいはロマンティシズムの世界を詠っていた、自分でも疑問を抱きながらもそういう詩を詠っていたのが、ここから変わります。

<文献>
一叩人編『鶴彬全集』(たいまつ社、1977年)

非国民がやって来た!(25)

鶴彬(2)

鶴彬は、森田一二との出会いの後に評論「僕らは何を為すべきや」を書きます。
冒頭から非常にストレートに言っていて、「現代の世界文芸界通じて二つの傾向が見得らるる。それは一つの反古典主義と一つの反古典的な革命主義とである」と言います。さらに、「生命主義と社会主義とはその人生観において又世界観において根本的に相容れぬ性質を有する」。森田一二の社会主義派の川柳に出会って、鶴彬の思考が変わった訳です。

 別の箇所ではこういう言い方もしています。
「さてこの『人生の救い』としての生命主義の芸術が、資本主義文明下に苦悶するプロレタリヤ階級に取っていかほどの救いとなり得るか、先に示した如く世界最大の苦悩としてのプロレタリヤの苦悩は自然より来るものではなく社会組織より来るものである。そこにいかほど人生とは宇宙とは死とはを救っても救いきれないものが残るのではないか、救う生命主義は○○○○○○○○○○○○○○○○○○○(伏せ字19文字)に苦悶せしめられるし階級の救いにはならず、僅かブルジョア階級へ阿諛追従して生きつゝあるプチブルジョアの救いでしかない。いかに巧みな詭弁でもって、生命主義も遂には無限自由なる個人主義的世界――社会意識なき――を展開せしむべく創造しつゝあると叫んでもこれはもはや時代の芸術より立ちおくれた詭弁でしかないのである」。
自然主義や生命主義やロマンティシズムを厳しく批判して、革命のため、社会改良のための川柳を詠んでいくと宣言します。それこそが江戸時代に始まった本来の意味なんだと。
つまり川柳というのは、本来、社会風刺が核である。庶民の立場から見てその時代の偉い人たちを笑いとばす。社会の仕組みを問いかける。それが元々の川柳である。それなのに明治時代の川柳は、恋だの自然だのと詠っていた。それを反省して再び社会風刺、しかも最も痛烈な社会風刺をやって行くことが必要だと言って、川柳の「革新」を唱える訳です。

 それが「プロレタリア川柳」です。森田一二は社会主義派川柳と言っていました。アナーキズム、社会主義、共産主義が日本に紹介され始めた時期です。幸徳秋水とか、後に関東大震災の時に殺された大杉栄等はアナキストですが、大正デモクラシーで民主主義が日本に広がる。そういう中で社会主義もどんどん日本に広がっていたのです。そういう流れに乗って川柳にも社会主義、あるいはプロレタリアートの立場での川柳が登場します。
 鶴彬は1928(昭和3)年から、この名前を名乗る様になります。本名ではなく、鶴彬と名乗り自覚的に「プロレタリア川柳」を展開していきます。1929(昭和4)年からは労働者となり、様々な川柳や評論を発表していきます。

 この時期の代表的評論には次のものがあります。「プロレタリア川柳の美学的見地」(1928年)、「プロレタリア川柳批評への批評的走り書き」(1928年)、「芸術における美の階級性と宣伝性」(1929年)。

 非常に批判的、戦闘的な評論です。自然主義やロマンティシズムを徹底的に批判します。社会主義と称していても川柳としてできの悪いものは批判する。論敵だけではなく、親しい人たちの川柳に対しても非常に厳しい批判をする。論争を仕掛ける。反論が来るとまた論争を仕掛ける。「ここまで批判するか」と思うぐらいの批判を徹底的にやりながら、お互いに切磋琢磨して「プロレタリア川柳」をつくっていく時代です。

<文献>
秋山清『近代の漂白』(原題思潮社)

非国民がやって来た!(26)

鶴彬(3)

自覚的に新しい川柳を開拓していたので、先輩たちを片っ端からなぎ倒していきます。おかげで、かなり嫌われたりもするわけです。17、8歳の将来を期待された若者が颯爽とデビューしてきた。ところが20歳になるかならずの時期に、もう大先輩たちを次々と槍玉に上げる。その舌鋒鋭い批判に周りは呆気にとられる訳です。
ただ、それだけ言う程の川柳をつくっていました。18~20歳で、周りが驚く程の作品をつくり、それを自覚的に展開していたので、その点では当時から評価されています。将来有望だったわけです。

 1930(昭和5)年に金沢第7連隊に招集されて、兵隊になります。
ところがそこでも黙っていない。川柳を書いてはいられないのですが、黙ってもいられないので、連隊内で共産主義的な運動を行います。よりによって日本軍の中で、共産主義者が仲間と連絡を取って運動する。運動と言っても、単にビラを書いていた程度です。しかし「とんでもない」ということで、1931(昭和6)年、「第7連隊赤化事件」ということで捕まり軍法会議にかけられて、1年8ヶ月の刑を受けて収監されます。軍隊からお払い箱になって帰ってくる訳です。当時の言葉で言えば<赤>なので就職もできない中、暮しにも苦労しながらやっていきます。そういう時期に労働者の立場で色んな作品をつくっています。「労働街風景」はその一つです。



  「労働街風景」

  瓦斯タンク!不平あつめてもりあがり

  明日の火をはらむ石炭がうず高い

  ベルトさへ我慢が切れた能率デー

  生命捨て売りに出て今日もあぶれ

  焼き殺されまい疲れへ殺気立って飛ぶ焼餅

  夜業の窓にしゃくな銀座の空明かり


  一行詩の川柳とともに、この時期、鶴彬はおそらく石川啄木の影響で川柳を3行に書き分ける試みもしています。次の「自由旗の下に」の様な形です。 

   「自由旗の下に」
  しなびた胃袋にやらう

   鬼征伐の

   キビ団子!

      ×

   かまきりの

   斧をぶんどる

   蟻の屍

      ×

   工場へ!学校へ!

   わかれて行けといふ

   道!

      ×

   杭うちのどひゞきよ

   あヽ、うづく

   お腹の坊や

      ×

   坊やは

   乳呑みたりない

   始業の汽笛よ


 鶴彬への啄木の影響は明らかですが、鶴彬の意識としては啄木に学びながら、啄木をも乗り超える意欲を持っていました。両者の関係については後に再度見ることにします。

非国民がやって来た!(27)

鶴彬(4)

1937(昭和12)年に「近事片々」、さらにひらがなで「すとらいき」をつくっています。



   「近事片々」

   増税の春を死ねない嘆願書

   ゼネストに入る全線に花見客

   人民に問へばゼネラルストライキ

   アゴヒモをかけ増給を言へぬなり

   祭政一致と言ふてゆるさぬメーデー祭 

    

   「すとらいき」

   メーデーのない日本のストライキ

   要求を蹴りアゴヒモがたのみなり

   歯車で噛まれた指が書く指令

   翻る時を待ってる組合旗

   生きてゐるな解雇通知の束がくる

   裏切りをしろと病気の妻のかを顔



 こういう形で労働者の立場から資本家を批判する。社会を批判する、政府を批判する。そういう作品をつくり続ける訳です。


  
   「洪水」

   花つけた稲へ

   増水の開門開けっ放す

   ダム!

       ×

   疑獄はらんだ堤を

   今こそ噛み破る

   怒濤の牙

       ×

   石ころの腹が美田となるまで

   情け深い
            
   地主さん

       ×

   これしきの金に

   主義!

   一つ売り、二つ売り

                                                                                                                                

 「洪水」は、労働者が本当に苦しい中――当時の日本資本主義が一番苦しかった時期ですから――こきつかわれて賃金も安いまま働いていた様子をこういう形で詠った訳です。

 鶴彬は、プロレタリア川柳の理論を色んなところで何度も繰り返し書いています。生命主義や自然主義から社会主義、プロレタリア川柳に変わって来た訳ですが、一つの焦点になったのが、自由律か定型律かです。元々俳句と一緒で五七五の定型律だった訳ですが、川柳の世界に自由律が登場して来たことで、それに対して一体どういう風に考えるのか、という論争が何度も行われています。
一方では単に形だけの自由律。自由律になっているけれども何の意味もない自由律もあれば、昔のまま単純に定型律を守っている人もいる。ではプロレタリア川柳という思想的な必然性を持って、いかなる形式を選ぶのかという議論が続きます。

非国民がやって来た!(28)

鶴彬(5)

 鶴彬が書いた評論の一例に「定型律形式及び図式主義への闘争」があります。
「全く、プロレタリア芸術から、唯物弁証法的世界観を首抜きにしてしまふことは、むしろ自殺を意味するであらう。だがこんどは反対に、唯物弁証法的方法を、そのまゝ創作的方法として規定するならば、また芸術の敗北である。いかにすぐれた政治的理論といへども、それがうたふ形式で書かれたばかりで、決して詩とはならないやうに、いわゆる世界観的方法は、そのまゝ芸術的方法となり得るものではない。哲学における方法は、概念的特徴である。これが、哲学と芸術の特殊性である。」
単純な定型律はよくない。しかし単に自由律に変えれば良いというものでもない。プロレタリア芸術というものを発展させる中で、自分はいかなる必然性があって定型律を採用するのか。あるいはその定型律を内側から食い破る形で自由律の新しいリズムをどうつくって行くのか、ということを鶴彬は何度も考えます。  

 その立場は現実の労働者の立場です。それが出ているのが同じ評論の文中で、「われわれは、なによりもさきに、具体的現実から出発せねばならぬ。現実の真実性を、ありのまゝに認識することは、とりもなほさず現実の本質たる弁証法はわれわれの認識の基礎であり、また導きの光となる」という言い方をしています。当時の社会的リアリズムとは何なのか、ということを巡っての争いになります。

 「プロレタリア川柳は、その新しいレアリズムのために、古川柳や通俗川柳のもつ、事物を確定的に描くといふ洗練された技術などを学ぶと共に、複雑な内容を簡易な表象化や、捨象的方法によって表現する神秘川柳の象徴的技術をも消化せねばならぬ。この過去の川柳がもつ技術の吾々の川柳は、一切の過去の川柳の最高に立つことが出来るであらう。それは作者の個性や才能や技術にもっともふさわしい内容や形式への創造的探求および創造的発展によってつらぬかねばならぬ。自由律形式の発展はこの道を通じて創造の翼を羽ばたきせよ!」。 単純に定型律か自由律かという問題ではない。これまでの川柳の歴史をきちんと踏まえてその形式だけではない、内容や技術も全て受け継いで発展させることこそが重要なんだ。それができないんだったらプロレタリア川柳の意味がないと言っている訳です。

 では具体的にどんな川柳を詠っていたのか。資本主義批判の作品は既に紹介したので、それ以外のものとして、鶴彬が特に女性労働者、あるいは資本主義世界で最も虐げられている女性たちをどういう風に描いたかについて触れてみます。



   「火箭集」

   玉の井の模範女工の成れの果て

   みな肺で死ぬる女工の募集札

   とり立てにくる朝となって仏壇の身代金



 「玉の井」というのは、東京に当時あったいわゆる売春窟です。売り飛ばされた女性たちが前借金をとられて、売春を強制されていた場所、それから「みな肺で~」、これは『女工哀史』で有名なように、日本の資本主義は繊維産業が出発点でしたから、その繊維の粉の飛び散る中で、ずっと仕事をして、女性たちが肺病に罹っていく、これが当時の現実なわけです。


 <文献>
澤地久枝・佐高信「世代を超えて語り継ぎたい戦争文学」世界765号(2007年5月)

非国民がやって来た(29)

鶴彬(6)

   「火箭集」

   ざん壕で読む妹を売る手紙

   修身にない孝行で淫売婦

   もう売るものがなく組合旗だけ残り

   貞操と今とり換えた紙幣の色



 特に1928~29年というのは東北の農村地帯の飢饉の中で、農家が娘を売らざるをえなかった時代です。親孝行するためには「売春婦(淫売婦)」にならざるをえない。それから貞操とお金を取り換える、というのも同じことです。



   村々の月は夜刈りの味方なり

   暁をいだいて闇にゐる蕾
枯れ芝よ! 団結して春を待つ
吸ひに行く 姉を殺した綿くずを

   貞操を為替に組んでふるさとへ



 これも非常に有名な川柳です。「吸ひに~」は工場労働で綿くずを吸って病気になって姉が死んだ、でも妹も弟も同じところで働かざるをえない状況です。「貞操を~」は、自分の体を売って故郷に仕送りをする女性の現実を描いています。

 鶴彬の言葉の中には「淫売婦」その他、今で言えば差別的な表現があります。ただこの言葉は当時一般的に使われていた言葉で、皆が使っていた、それを鶴彬も使っていた。しかも、女性の被害を取り上げて、他のほとんどの詩人や小説家が取り上げない昭和初期の女性たちの貧困と抑圧を訴えていた。そういう男性作家は少なかったといってよいでしょう。

 同じ事は朝鮮人についても言えます。



   「半島の生まれ」

   半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる

   内地人に負けてはならぬ汗で半定歩のトロ押す 

   半定部だけ働けばなまけるなとどやされる

   ヨボと辱められて怒りこみ上げる朝鮮語となる

   鉄板背負ふ若い人間重機で曲がる背骨

   母国掠め盗った国の歴史を復習する大声

   行きどころのない冬を追っぱらわれる朝鮮小屋の群れ



 「半島」は今は使わない言葉です。当時は普通の会話でも使っていた差別的表現がたくさんあります。鶴彬もそれらを使っています。ただ、同じ差別的表現を使っていても、文脈はまったく違います。日本人が朝鮮人を差別するために使っていた言葉と、鶴彬の言葉の使い方はまったく違う。むしろ「怒りこみ上げる朝鮮語となる」という形で朝鮮人の怒りを自分の怒りとして描いているのです。これが鶴彬の立場です。

 朝鮮への視線という点では、石川啄木と鶴彬をどう対比するか。これは思想的にも文学的にも重要です。素人目に考えても非常に興味のあるテーマです。
啄木が短歌の世界で、鶴彬が川柳の世界で、ともに時代の矛盾を告発していた。啄木は「時代閉塞の状況」を告発する評論が最も優れている訳です。同様に鶴彬はプロレタリア川柳ということで時代告発をしていった訳です。
鶴彬が石川啄木をどう見ていたか。最もまとまっているのが評論「井上剣花坊と石川啄木」(1937年)です。数ページにわたる文章で非常に面白いのですが、ポイントだけ触れていきます。


 <文献>
新藤謙『国家に抗した人びと』(寺子屋新書、2004年)

非国民がやって来た(30)

鶴彬(7)

啄木はロマンティックな世界から、現実の社会批判に変わって行った。それを踏まえて「井上剣花坊と石川啄木」の中で鶴彬は、書いています。
「ここにうたわれてゐるものは、『両足を地面に喰っつけて』ゐるところの『実人生と何らの間隔無き気持ち』である。そこにはきわめて現実的な人間の生活心理・感情・思想が、あまりにも素朴率直に投げ出されてゐる。生きた人間啄木の血が脈々として流れてゐる。この啄木の血の奔流こそ、当時の社会的・日常的現実に対する敏感忠実な凝視からほとばしるものであり、従って当時の生活の真実を代表するものといふことができるのであらう」。

 「この意味からして、明治の短歌は、啄木において始めて近代的生活の表現をあたへられ近代的人間の生活的真実に肉迫したといふことが言へる。われわれは勿論、この他の啄木の歌に現れた卑俗な感傷の過剰を、見のがすわけのものではない。またこの感傷癖が、ときには健康なレアリズムの精神を見失ひ、たゞいたづらなる感情の遊戯にふけってゐることをも抹殺しようといふのではない。しかしそれらのマイナスは、啄木のとほってきた不遇にみちた生活環境、年齢の若さ、多情多感な性格、また当時の社会的段階を考慮に入れるときに、決して無理からぬ事柄としてうけ入れられるであろう。いやむしろこうした過剰な感傷をもった啄木であったればこそ、超現実的な浪漫的空想や幻想のさ中から、こういう歌を書いたのだ」。
啄木についてロマン主義から自然主義への進歩的な転進と表現しています。鶴彬自身も、自然主義や生活主義を乗り越えてプロレタリア川柳へ前進してきました。「不遇にみちた生活環境、年齢の若さ、多情多感な性格」とあるのは、小学校にしか行けなかった自分のことです。川柳は一つの武器である、資本主義と戦い、社会の悪と戦うための武器なんだと言います。正しい川柳の防衛のために様々な評論を書き続けます。

 時代は大正デモクラシーから昭和ファシズムになります。1931年の満州事変。32年、桜田門事件や5・15事件。33年には小林多喜二が東京築地署で拷問されて殺されます。35年、天皇機関説事件。世の中がどんどん暗くなって行く。クーデターや暗殺が起き、日本は中国で戦線を広げていきます。共産主義は非合法で、治安維持法によって捕まっている時代。鶴彬はプロレタリア川柳の先頭に立っていました。多くの仲間が「こんな川柳を書いていたら捕まってしまう」ということで、どんどん止めて行く、抜けて行く。鶴彬は先頭に立って詠い続けます。
 東京深川の木材通信社で働いていた1937年12月3日、特高警察に検挙されて中野区野方署に留置されます。そこからは手紙も出せない、何が起きているか全く解らない。当時の特高警察ですから、相当ひどい拷問をされたと推測されますが、解りません。

 1938年8月、赤痢にかかったということで身柄を拘束されたまま、淀橋区柏木町の豊多摩病院に入院させられますが、9月14日午前危篤状態になり亡くなります。29歳です。川柳の世界にデビューしたのが16歳。実質は17歳からで、およそ12年間、川柳の世界で活躍しました。軍隊に行ったり、捕まっていた時期が少し抜けますけれども、わずか12年間川柳を詠い、プロレタリア川柳の基礎をつくりあげたところで、日本ファシズムに虐殺されてしまった。
川柳史に今も燦然と輝く、類稀れな精神です。



<文献>
田中伸尚・佐高信『蟻食いを噛み殺したまま死んだ蟻』(七つ森書館、2007年)