空に歌えば――平和・人権・環境(4)

語り歌の世界を
館野公一


 語り歌という分野がある。
歌うように語り、語るように歌う。歌の途中のセリフのようでもあるが、セリフ自体が重要な位置を占め、独特のリズムとメロディで物語を展開する。弾き語りという言葉があるが、語りの部分に焦点を当てるスタイルだ。
聴きようによっては、講談や落語のようにも聞こえるし、時にはニュース解説のようにも思える。歌うように語るが、歌よりもそっと静かに、ひそやかに語るかと思えば、叫んだり、断絶を効果的に用いたり、演劇的な要素を多く含む。

 

さあさ皆さん聴いとくれ これから始まるお話を
テレビなんかじゃちょいと聴けない お代は聴いてのお帰りだ
オクラホマの片田舎 広い砂漠の真ん中で
大きな灰色の工場が建っていた いつの間にやら出来ていた
外から見てもなんにも解らない 煙も出ないし 火も出ない
でも中に入ろうと思ったら ガードマンに玄関払い
何を隠そうこの工場 原子炉で使う核燃料を作ってる
でも近所の人たち 何にも知らなかった 放射能のことなんか
   冬の国道七四号線 高速道路は知っていた
カレンに何が起きたのか 誰がカレンを殺したか

 

 国立市(東京都)を拠点とする館野公一は、語り歌を得意とする。東京生まれの館野は、高校時代、高田渡、加川良、友部正人に影響を受けて、歌い始めた。一九七七年頃から、市民運動の現場で、自作の歌や替歌を唄うようになった。
 一九七八年頃に作った「カレンシルクウッドのバラッド」は、核燃料工場の被曝をテーマにしている。核燃料工場で働くカレンが、放射能に疑問を持って調べた結果、会社がデータをごまかしていて、自分たちが被曝していたことを知る。新聞記者に情報提供しようとしたカレンは「居眠り運転」で交通事故死した。カレンが集めた資料のファイルはどこかへ消えてしまった。冬の国道七四号線、高速道路は知っていた。カレンに何が起きたのか・・・。館野の最初期の作品だが、全部で一四分かかる。
 館野は、歌と語りを組み合わせて、歌いながら語り、語りながら歌ってきたが、九六年から、語り歌のスタイルを意識的に全面展開して「語り歌の継承」と銘打ったライブを続けている。
九九年からは、国立の平和運動の仲間とともに、街頭で「辻つじ反戦流し」に取り組んでいる。毎月第四日曜日に街頭に立って、平和を歌い、道行く人に様々なアピールを伝えてきた。歌あり、詩の朗読あり、演説ありの街頭平和コンサートである(写真参照)。
 館野は環境問題に力を注いできた。宇井純(公害問題研究家、元東京大学助手、沖縄大学名誉教授)の講演を聞いたことがきっかけで公害問題に取り組むようになり、自主講座に加わった。「東京駅発一一時半の深夜バスがいま富士川の鉄橋を渡った 夜目にもみえるあの煙はパルプ工場の煙突 かつて富士川に流したパルプ排水は 二〇年たっていまダイオキシンになって戻ってきた」と始まる「夜を走る」は、公害問題を歴史的に捉える。インドのボパールで起きた農薬工場大事故を素材にした「ボパールの悲劇」。環境破壊によって各地の川からアマゴがめっきり減ったことを歌った「アマゴが教えてくれた」。コンビニ弁当の安全性を素材にした「豚のごはん」は楽しいが、恐ろしい歌だ。
 高木仁三郎(市民科学者、原子力資料情報室)との出会いも館野の人生を変えた。反原発運動に加わり、環境問題の文章を執筆するとともに、歌ったので、「反原発シンガー」として知られるようになった。高木の追悼集会で歌った「高木さんが笑った」は、反原発の理論家にして運動家であった高木の一面と、館野の特質をよく体現した作品だ。また、「花のチカラ」では、小さな花がもつ大自然の生命力を歌う。
 
 ベラルーシの春は遅い
 ここでも菜の花は春を告げる花
 あの日原子炉の爆発で放射能が飛び散った
 細かいチリは地球をぐるりと回った
 二〇年たっていま、一五万平方キロの食べ物を作ることが出来ない土地がここにある
 しかたなく始めた菜種栽培 ディーゼル燃料の代わりに菜種油が役に立つという
 地平線まで続く黄色の花の海 そこに立つ人々は知らなかった
 言葉を持たぬ菜の花は無言である仕事をしていたのだ
 少しずつ少しずつだけど大地のセシウム一三七を菜の花が吸い上げていた
 何年かかるかわからない いつ放射能がなくなるかもわからない
 でも菜の花は少しずつ少しずつセシウムを吸い上げていたのだ
 放射能の眠り続けるベラルーシの大地に
 今年も菜の花が歌うように咲いている
 春の遅いベラルーシ 六月には大地が黄色に埋め尽くされる
 菜の花の声なき声が聞こえてくる

 環境問題とともに、館野は人権や平和を歌い続けてきた。
「ぼくの名前はヤマダさん でも本当の名前はトー・チョンプナッド チェンマイを出てからもう五年が過ぎた 冬の雪にも慣れたし日本語も覚えた」と始まる「NAGANOに追われたトーのバラッド」は、長野五輪の際の外国人労働者の酷使と切り捨てへの抗議を歌う。「じゃぱゆき君の冒険」も同じテーマだ。冤罪で死刑判決を受けたルービン・“ハリケーン”・カーターを歌ったボブ・ディランの「ハリケーン」も館野のレパートリーだ。
 語るべきことを語らない市民が増えていないか。歌うべきことを歌わないミュージシャンが増えていないだろうか。館野は、語り歌の世界を継承し、発展させながら、環境や人権についてともに考えるよう呼びかけ続ける。

 

見えない光の矢

1999年9月30日 午前10時35分 
茨城県は東海村 JCOって会社で起きたこと

20時間の臨界が続き 31万人が避難して
700人が被曝して 2人の作業員が帰らなかった  

見えない光の矢が近くを飛んでいったようだ

事故から2時間もたってから 村の防災無線が
「屋内に避難してください」と言ってたけど NHKのニュースの方が早かった

常磐線はもう止まっていた 海苔や昆布を食べろ誰かが言った
お湯をかけて醤油で味をつけ 口が痛くなるほど食べた

 見えない光の矢が一本耳をかすめていった

水戸までに買い物に行った妻の ケータイに電話して
いいからこっちには 帰ってくるなと怒鳴るように言い聞かせた

すごいスピードで走っていく 町の広報車
事故が何とかといっているけど 語尾が聞き取れない

 見えない光の矢が何本か手のひらと足を貫いていった

学童保育には連絡もなかった 暗くなって仕方がないから
子どもたちを帰したら 雨が降ってきた

土砂降りの中を傘もささずに 子どもたちは歩いて帰ってきた
ずぶぬれの子どもを風呂場に連れて行き 頭から必死に洗った  

見えない光の矢が束になって心臓のあたりを通り抜けた

今が盛りのサツマイモ 市場から返された
事故の前に出荷したのに 売れるわけがないと戻ってきた

車の窓をぴったり閉めて 人っ子一人いない町
道路は封鎖され 角々には白い防護服を着た人が立っていた  

見えない光の矢が数えられないくらい体中に突き刺さった

隣の町工場の社長夫婦は 一番近いところにいた
翌日から下痢が止まらない 口内炎もたくさんできた

頭が痛い 体がだるい 寝床から起き上がれない
発疹が出る 手も足も腫れる 顔が酔ったように赤くなる

 見えない光の矢が壁のように全身に襲いかかった

無理なスケジュールも聞かねばならぬ 納品の期限が迫る
ステンレスのバケツでウラニウム溶液を注いだその時

バシッという鈍い音が 部屋の中に響く
何がおきたかよくわからない 口の中にゆっくりと鉛の味が  広がっていく  

見えない光の矢が部屋の中にびっしりと詰まっていた
見えない光の矢が青白い光になって…見えた!


マスコミ市民2007年4月