空に歌えば――平和・人権・環境(9)

後に繋がる命の平和を願って
     李 陽雨


  俺のおやじは炭焼きおやじ
  俺はその背で夢を見た
  山から山への流れ者
  眠る所も窯のそば

  俺のおやじは炭焼きおやじ
  俺はその目に影を見た
  山を切っては道開き
  雨が降っては流された

  本も読めねえ炭焼きおやじ
  悲しい手紙に微笑んだ
  俺が学校へ入った時に
  初めて流したおやじの涙














 李陽雨は、下関生まれの在日韓国人二世である。高石ともやを師匠と仰ぐ李が、一九七五年、ギターひとつで歌い始めたときにつくったのは、故郷への想いを歌った「私のふるさと」と、父親を歌った「すみやきの歌」だった。
 祖父は農民だったが、植民地時代に土地を失って小作人になったという。父親は日本へ渡り、宇部炭鉱で働いた。戦後は下関に移り、朝鮮戦争の頃から炭焼きの仕事を始めた。鬼ケ城の中腹など山奥に入って、小屋に暮らし、木を切り、炭を焼いた。李陽雨は、父親に背負われた記憶や、小学校三年の頃には炭焼きを手伝ったのを記憶している。小学校五年の時に豊浦町に移って、やはり炭を焼いた。その後、次第に炭が売れなくなったため、中学校二年の時に山を降りて、光市に出たが、父親は二年ほどして交通事故で亡くなった。三九歳だったという。
 学校にも行けず文字も読めなかった父親、炭焼きをしながら「帰りたいの~」と呟いた父親は、日韓条約も見ることなく世を去った。
 「幼い頃、海を渡ってきたおやじ。異境の地で生きることは辛かった。山奥での炭焼き生活、子どもたちとわかれての生活、病身の妻をかかえての生活が続きました。そういうおやじに課せられたのものは、いつも耐えることだったのです。」
 父親の人生は、植民地時代に強制または半強制で日本への渡航を余儀なくされた朝鮮人一世に共通の人生といってよい。戦後に帰国した者も多数いたが、少なくとも数十万人の朝鮮人は帰りたくても帰国できず、結局、在日朝鮮人として生きることになった。学歴もなく、これといって手に職もなく、言葉の壁、社会的差別のなか、生きることに必死だった。一人ひとりの人生はさまざまであり、体験も記憶も異なり、思いも多様ではあるが、在日朝鮮人一世の人生としての共通性がある。
 李陽雨の人生も、在日朝鮮人二世によくみられるパターンを辿った。父親との葛藤があり、亡くなった父親への熱い想いもある。日本社会の差別と闘いながら、時に差別から逃れ、自分から逃れようとする。日本人になりたいと、帰化を願った。しかし、当時の帰化手続きはきわめて差別的であり恣意的であった。日本国家の利益になるとお墨付きを得たものに許される特典としての帰化であった。
 在日朝鮮人は歴史まみれの存在だ。植民地支配、祖国の分断、朝鮮戦争、日本における差別。祖国の歴史と文化を破壊され、自らのアイデンティティを根こそぎ奪われ、歴史に押しつぶされそうな人生を送った者が多い。
 やがて死んだ父親と同じ年齢にさしかかろうという頃、それまで本名を名乗らず、日本的な通名で暮らしていた李がいよいよ帰化申請をしようとした時に、押しとどめたのが友人の井口和男だった。井口は「自分のアイデンティティを大切にしろ。朝鮮の文化を見失うな。本名で生きろ」と繰り返した。
 しかし、日本社会で本名を名乗れば差別はますます厳しくなるに決まっている。日本で生きていくためには通名のほうが便利である。帰化したほうが早い。
 ところが、井口はあくまでも説得を続けた。日本と朝鮮の歴史や、現在の差別を知っているからこそ、在日朝鮮人が朝鮮人として生きることの重要性を理解していたのだろう。悩みながらも井口の説得を受け入れた李は、本名を名乗って生きることを決断した。
 本名を名乗ってみると、狭くなると思っていた李の世界が逆に三六〇度ぐるりと広くなった。失うものがあったとしても、得られたものも大きかった。ここから李陽雨の第二の人生が始まった。

  不安な日々の暮らしの中に
  届けられた悪魔の贈り物
  暑い光に焼き焦がされて
  黒いシャワーを浴びせ掛けられた
  六〇年経つのに消えない傷跡
  六〇年も過ぎるのに深くなる心の傷
  ピースフル長崎フォーエバー
  ピースフル広島フォーエバー

  南の国に愛する人が
  北の町に愛する人が
  もしもいたならボタンは押せない
  空飛ぶ鳥たちよ運んで欲しい
  東の国から西の国への
  熱い想いを届けて欲しい
  ピースフル長崎フォーエバー
  ピースフル広島フォーエバー

  誰もが誓ったあの歌のように
  繰り返すまいぞ三度は
  緑の風に舞う子供達
  青いしぶきを上げる魚達
  季節が変わるたび咲く花よ
  何年経っても変わらない姿を
  ピースフル長崎フォーエバー
  ピースフル広島フォーエバー

 李は、ヒロシマ・ナガサキも歌い続けてきた。一九九五年には「どくだみ草」で「めだつ事なく生きてても きっと何かの役に立つ どくだみ草になりたいな あの日夏の広島に なにより早く芽を吹いた その健気さに生きたいな」と歌い、一九九九年に「ピースフル長崎・広島フォーエバー」をつくった。
 平和を願い、「私達の後に繋がる命の平和を願って」歌う李は、歴史の狭間から零れ落ちようとする人々、置き去りにされようとする人々を歌う。それは自分自身であり、オモニやアボジであり、小さき人々である。
 「アメリカ議会の慰安婦決議案問題に対する安部晋三首相の言葉は、歴史の事実を否定しようとするものです。あったことをなかったことにしてしまいたい人たちが、戦争や差別の悲惨さを覆い隠そうとしています。半世紀をこえる隔たりがあって、重要なことが風化させられようとしています。歴史が否定されようとしています。しかし、植民地支配や、強制連行、慰安婦といった事実を風化させてはなりません。疎外されようとしている歴史を守り、伝えていく必要があります。」
 矛盾に貫かれ、矛盾そのものを生き抜いてきた李は、違う日本も見ている。
学校講演やコンサートで歌う中、外国人の人権問題に取り組む日本人や、戦争の記憶を掘り起こしている日本人との出会いがあった。心温まる日本人がたくさんいることもわかってきた。
 「しかも日本には憲法第九条という素晴らしいものがあります。憲法第九条は日本だけのものではないでしょう。なぜ世界に勧めないのでしょうか。憲法第九条を変えるのではなく、憲法第九条を高々と掲げて、日本こそ世界の平和づくりをリードするべきではないでしょうか。」
 李の眼には、歴史に翻弄される小さき人々の願いとしての憲法第九条がはっきりと見えている。

  みかんの花の咲く丘で
  眺めていた青い海
  みんな一緒に飯を食う
  それがおやじの夢だった
  
  俺のおやじは炭焼きおやじ
  俺はその背で夢を見た
  山から山への流れ者
 眠る所も窯のそば

 

私のふるさと
           作詞・作曲:李 陽雨

 

 私のふるさと この海の向こう
 緑の木繁る山がある
 春の風 夏の陽射し 秋の空 冬の雪
 私のふるさと この海の向こう

 私のふるさと この海の向こう
 清らな流れの川がある
 響灘 蓋井島 はるかに対馬
 私のふるさと この海の向こう
 
 私のふるさと この海の向こう
 この地に続く海がある
 釜山港 ふるさとへ続く長い道のり
 私のふるさと この海の向こう

 私のふるさと この海の向こう












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