救援07年01月号
裁判員はどこへ行く(一)
裁判員制度の導入が二〇〇九年に迫ってきた。司法制度改革推進本部検討委員であった池田修(東京高裁判事)による注釈書『解説裁判員法』(弘文堂、二〇〇五年)が出版され、裁判所における検討の基礎材料となっている。裁判所では裁判員導入に向けて予行演習が続いているという。最高裁は一三億円の広報費を使って宣伝に努めてきた。
日弁連も宣伝ビデオを作成し、テレビ番組に出て宣伝する一方「裁判員裁判における審理のあり方についての提言案」「裁判員休暇制度の導入についての会長談話」等々を発表して準備を進めている。法廷のレイアウト、裁判員の選出手続きなど具体的な問題も逐次処理されている。
推進派弁護士による出版も進められている。かつて「陪審裁判を考える会」事務局長だった四宮啓(弁護士、早稲田大学法科大学院教授)らの『もしも裁判員に選ばれたら――裁判員ハンドブック』(花伝社、二〇〇五年)、日弁連司法改革調査室に属した河津博史(弁護士)らの『ガイドブック裁判員制度』(法学書院、二〇〇六年)など出版も相次いでいる。研究者によるものとしては、丸田隆(関西学院大学法科大学院教授)『裁判員制度』(平凡社、二〇〇四年)がある。
にもかかわらず、「裁判員がやってくる」というよりも、始まる前から「裁判員はどこへ行く」とのため息が聞こえてきそうな現状である。
裁判員の「壁」
「朝日新聞」二〇〇六年一二月一五日付の特集記事「裁判員時代」は、その意味で興味深い。朝日新聞は、まず朝刊一面で「市民が裁く『壁』次々――同じ事件異なる評決」として、全国各地の地裁における予行演習に参加した市民たちが「人を裁くことのむずかしさに戸惑う」として「本番までに乗り越えなくてはならない壁は、予想した以上に高い」とする。記事の中心は強盗傷害事件の模擬裁判である。東京地裁での模擬裁判では、裁判官三人と裁判員四人が有罪と判断し、残る裁判員二人が「有罪とするには疑いが残る」として無罪。多数決で有罪が決まり、懲役六年という評決に達した。ところが、千葉地裁でも同じ事件の設定で模擬裁判が開かれた。千葉地裁では、裁判官三人が有罪、裁判員六人が無罪に分かれ、無罪となった。朝日新聞記事は、さらに三九面で「揺れる審理悩む市民――『模擬』でも『重いもの残る』」として、詳しい経過を紹介している。模擬陪審に参加した市民の職業や年齢、争点の設定や、弁護側の反論内容も紹介した上で「最終的に何が有罪・無罪を分けたのかは当事者にもわからない。被告からすれば、どの法廷で審理されるかによって、運命が大きく変わることになる」とする。また、最高裁の見解として「プロの裁判官と裁判員がいかに協働するか」が課題としつつ「裁判員に自由に意見を言ってもらうのは大変」「誘導的になってはいけない」という裁判長経験者の声を紹介する。
この記事は、裁判員導入に向けて克服するべき課題を指摘している。しかし、どこかおかしくはないか。この記事はなぜ書かれたのか。記者はどこに取材したのか。
第一に、記事の情報源はすべて裁判所(最高裁と東京地裁だけ)である。千葉地裁も登場するが、これはせいぜい電話での確認か、単なる又聞きの可能性が高い。あたかも数人のコメントがあるかのように書かれているが、実名で登場するのは伊藤雅人・最高裁刑事局第二課長だけである。弁護士や刑事法学者のコメントもなければ、模擬裁判員のコメントもとってつけたようなものしかない。
第二に、刑事裁判についての認識である。裁判員だと評決が分かれると繰り返す一方で、「従来の刑事裁判は、法廷によって判断が大きく異なることは想定されていない」などと断定する。「法廷によって判断が大きく異なること」が「想定」されている裁判など、世界中のどこにもない。あるはずがないことを引き合いに出している点ですでに異常である。他方「想定」とは無関係に、現実には「法廷によって判断が大きく異なること」はいくらでもある。一審有罪・二審逆転無罪(あるいはその逆)は、何度も朝日新聞の紙面をにぎわせてきたではないか。迎賓館・横田事件のように、控訴した検事側の証拠請求を全て棄却しても、逆転の破棄差し戻しという例もある。記者の刑事裁判観は普通の市民とかけ離れている。「最終的に何が有罪・無罪を分けたのかは当事者にも分からない」というが、これは裁判員制度の問題ではない。従来の職業裁判官による裁判でも、同じ事はいくらでもあった。
裁判官のための裁判員
裁判員制度の認識はどうか。東京地裁では裁判員の判断が分かれた。千葉地裁では裁判員は全員が無罪の意見だった。だから問題だという。ここには決定的な誤解があるのではないか。
第一に、朝日新聞記事に掲載された表を見れば、裁判員の間では無罪の判断が多いのに、裁判官はつねに全員一致で有罪としている。そのことへの疑問こそ示されるべきである。裁判員が刑事裁判に「普通の市民の健全な常識」を持ち込むための制度だという建前からいっても、条件反射のごとくつねに有罪とする裁判官の問題が浮上するはずだが、記事は沈黙する。
第二に、裁判員の意見が分かれたから問題だという発想自体、裁判員制度の無理解を示すものでしかない。裁判員は意見が分かれるから意味があるのだ。意見が分かれることもなく、裁判官の言いなりになるのなら、そもそも裁判員など必要ない。模擬裁判で裁判員の意見が分かれたら「よかった」と喜び安堵するべきなのだ。記事にはこうした意識がなく、意見が分かれるのが問題だという。裁判員の意見が分かれたからといって、いったい誰が困るのか。職業裁判官にとって苦労が多少増えるというだけであろう。この記事は裁判所の情報だけに基づいて、裁判官の悩みを代弁しているだけなのである。「悩む市民」ではなく「悩む裁判官」と書くべきだろう(あるいは「悩まない記者」)。
司法制度改革審の段階で、市民の健全な常識を導入する陪審制の導入が否定されて、裁判員制が採用された。そして今起きているのは、裁判員を従来の刑事裁判の枠組みに押し込めてしまうのか、それとも裁判員導入を契機に従来の刑事裁判を少しでも変えようとするのか、その対立である。しかし、この問題は表面的な議論だけではすまない。裁判員が何であり、何のための制度であるのか、根本に立ち返った議論がまだまだ必要である。